頻発した水害

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本県は利根・荒川の二大河川があるため、毎年八・九月の台風季節になると、多少の水害をうけないことはなかった。明治期における本県の水害中、被害のもっとも大きかったものは、明治二十三年、四十年及び四十三年の洪水であった。このうち、当市域に大被害を与えたのは、二十三年と四十三年の両度であった。とくに当市域には、東から大落古利根川、逆川(葛西用水)、元荒川、末田大用水及び綾瀬川などがあり、その水源の利根川堤塘が決潰したことにより、各河川とも増水し、大被害をうけている。これについては後述する。

 その他にも数次の水害があったと思われるが、諸記録に残るものに、明治十八年と二十九年の水害がある。十八年の水害は「産社祭礼帳」によると、五月一日の大雨で綾瀬川沿いの地に増水があり、出羽土手が決潰寸前となったが、付近住民の懸命の水防で決潰を免れた。しかし越巻地域一帯は大海同様になったと記録している。また二十九年の水害は、九月十三日に古利根川が増水し、潮止村に接する東京府南足立郡花畑村大字六ツ木地内が破堤したので、潮止村・八幡村・川柳村・大相模村の各村に浸水し、大被害を与えた。この地方のこの時の被害は、二十三年の時よりは大きく、湛水は大相模村で一九日間におよび水量は六尺(一・八メートル)ないし一二尺(三・六メートル)に達した。

 明治四十年の水害は、前述のとおり県下全体では四十三年に次ぐ大被害を与えたが、当市域では綾瀬川・元荒川の水嵩(かさ)が予想外に低量でまったく水害を免れている。その他当市域に大被害を与えたものに三十五年の暴風雨がある。記録の残っている桜井村に限ってみても、同村では八月二十八日の暴風雨で、家屋の全潰二六棟、半潰六棟、損傷約三五〇棟に達し、樹木約六〇〇本が倒木している。農作物の被害も早稲が八割以上、他は二割から五割以上におよんだ。この時桜井尋常小学校では校舎が破損し、八月二十八日から十月五日まで休業を余儀なくされたとある。