明治二十三年八月二十二日から二十三日にかけて降雨が激しく、二十三日には利根川沿いで北埼玉郡須賀村大字下中条地先の堤塘が五九間決潰し、下流の南埼玉・北埼玉・北足立・北葛飾の四郡下に氾濫、大被害を与えた。当市域では二十五日午後五時ごろ元荒川通り大袋村大字大林地先の堤塘が二六間破壊した。さらに翌二十六日午後四時ごろから新方村大字向畑地先より大沢町地内に係る葛西用水路の水勢が、堤上から二尺以上も溢れて市域各地に浸入した。このため大沢町・大袋村・桜井村・新方村・増林村の六ヵ町村は忽ち一面の大海となり、田畑はもちろん家屋の床上にまで浸水した。
また、元荒川通りでは四丁野の堤塘が一時破壊の危険にさらされたが、下流の各地で水防につとめたので、右岸の地は難をのがれることができた。しかし、この時対岸の大沢側が破堤したので左岸の地はさらに被害が増大した。綾瀬川沿いでも沿川の堤防決壊に備えて谷中・七左衛門・蒲生・四丁野・越ヶ谷・登戸の各地住民が防禦につとめたが、増水が激しく、遂に出羽村大字越巻地先で溢水した。この溢水をどこに落すかで紛争もあったが、結局は丸の内耕地の古綾瀬川に落して被害を少なくした。
さらに、大落古利根川沿岸では桜井村大字平方地先の堤塘が破堤の危険にさらされたが、付近住民が総出で土俵六〇〇〇俵と伐採した樹木を堤上に積んで水防に努めた結果、同地は被害を免れることができた。
市域の被害状況は第103表のとおりである。これによってみても、増林・新方・大沢・桜井・大袋の各地がとくに被害の大きかったことが窺える。しかも湛水は一三日間にも及び、このため田畑作物の損毛は甚だしく、桜井村では上間久里で八割方、下間久里・大里・大泊は皆(かい)損毛であった。
なお、この洪水で市域各地では水防上の利害関係をめぐって紛争がおきている。その一例に巡査の殉職一件がある。これは恩間地域の元荒川大林堤塘が決潰して浸水したとき大林地域の人びとは堰(せき)に土俵を積み重ねて河水の浸水を防止しようとした。このため上流の大道・三野宮地域に水が氾濫したので、この地域の人びとは、土俵の撤去を越ヶ谷分署大袋第二駐在所の田口久五郎巡査に要請した。これにより同巡査は恩間住民にねんごろに説諭の上、堰を撤去させようとしたところ、五〇名ほどが激昂の余り同巡査の帰路を迎撃、頭部その他を棍棒をもって殴打したので、ついに頭蓋骨粉砕により殉職をとげた。同氏の墓碑は三野宮一乗院境内にある(越谷市金石資料集参照)。