明治四十三年の大水害

394~396 / 1164ページ

明治期の県下水害の最たるものに明治四十三年八月の大水害がある。この原因となった雨は、八月二日から降り始め、十二日までの一〇日間降り続いた。このため県下各河川とも著しく増水、各地で堤塘が決潰し田畑人畜に甚大な被害を与えることになった。なかでも利根川流域では児玉郡旭村や仁手村で溢水、ついで大里郡八基(やつもと)、新会(しんかい)、妻沼(めぬま)の堤塘が破堤した。この溢水は荒川筋の大麻生村から来た濁流と合して北埼玉郡中条村の福川筋水越堤塘を破壊し、北埼玉郡のほとんどの地を水にしたして流下、北足立郡の東部と南埼玉郡のほとんど、それに北葛飾郡の六~七分どおりを泥海と化して東京府に達している。

 ことに南埼玉郡では、元荒川・見沼代用水・綾瀬川・大落古利根川をひかえ、各河川の増水は二十三年の時よりはなはだしかった。人びとは警鐘を乱打して日夜水防に努めた。なかでも岩槻町から越ヶ谷町方面に至る元荒川堤塘上には土俵四、五俵ずつが積まれた。しかし、十日の午後八時、元荒川の水は豊春村大字南中曾根の堤塘を決潰、十一日には大袋村大字大林地内埼玉鴨場裏の堤塘を破壊した。このため洪水は新方領内の豊春・粕壁・武里・川通・桜井・大袋・大沢・新方の各町村に氾濫し、増林村におよんだ。これらの地域の家屋はほとんど軒を没するほどの惨状を極め、人家約一万一七〇〇戸、田約六一〇〇町歩、畑約五万三〇〇〇町歩が水中に没した。とくに増林村の被害は甚大で、その被害状況は次のとおりである。

 増林村四十三年出水被害調査
浸水戸数不浸水戸数被害人口無害人口
床上床下床上床下
五一〇戸九〇戸一〇戸六〇〇戸三、八四〇人六五七人七三人四、五七〇人

田稲ハ全部水腐ニ皈(帰)シ三百四十町三畝四歩
畑大豆モ全部水腐ニ皈シ弐百四十九町四反弍畝歩

(明治三十五年~大正六年増林村罹災救助資金関係書類綴)

明治43年の水害状況図

 また、利根川沿い上中条村からの溢水は、北足立郡加納村(現桶川市)と南埼玉郡栢間村(現菖蒲町)間の備前堤を破堤したが、これに見沼代用水からの溢水が加わり綾瀬川に氾濫した。このため、沿岸の栢間村下流地域は、ほとんど浸水している。とくに、十一日には柏崎村の堤塘が決潰、翌十二日には荻島村大字長島の堤塘が破壊され、荻島・出羽・越ヶ谷・蒲生・大相模の各町村に浸水した。さらにこの洪水はその下流の葛西用水堤と元荒川堤を溢水する水と合流し、八幡村地内の同用水堤を破壊したが、さらに同村大字浮塚の堤を破壊したため八幡村と潮止村はほとんど浸水した。その逆水がまた八条村、川柳村に氾濫したので、綾瀬川左岸と元荒川右岸全地域も水に犯されたわけである。これらの地域は、一部の高地を除き、深いところは床上五尺にも達して、濁流中に没するほどの惨状であった。

 このように市域内の各町村は、ほとんどにわたって浸水したが、十五日ごろまでは増水をみ、その後は少しずつ減少し二十五日ごろようやく平常に復している。浸水期間中の田畑は、見渡す限り一面の海と化し、ただ樹木のみが散在するという景観を呈した。そのため稲の被害は甚大で、とくに中稲(なかて)はほとんど無収穫となり、晩稲のみが多少収穫があった程度で、畑作の豆や野菜は全部腐敗し、もろこしだけがわずかに残った。この被害を米作についてみると、荻島村と出羽村が四、五割、越ヶ谷町が七割、蒲生村が五割、大相模村と川柳村が三割、増林・大袋・桜井・大沢の四ヵ町村は全損毛であった。

 この大水害の救助については前述したとおりであるが、市域各町村は大水害の善後措置として公租公課の軽減・免除、衛生の励行、産業の復興をはかり、道路・堤防・橋梁・学校などの復旧に努めている。これらの水害復旧費のためには、多額な財源を必要としたため、各町村はその捻出に苦慮し、基本財産・郡町村罹災救助資金を一般会計に転用したりして、急場をしのいだ。また南埼玉郡各町村では臨時土木費については、三分の二の国庫補助を望み、三分の一は県罹災救助基金からの借入を願ってこれを県に申請していた(本項の詳細は越谷市史(五)を参照されたい)。