耕地整理発起人会の設立

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このような新方領地域に、農地の区画整理と用排水施設の整備を目的とした耕地整理の計画案がもちあがった。すでに政府は、農業生産力増強政策の一環として明治三十二年に耕地整理法を公布したが、埼玉県でも三十四年に耕地整理費補助規則を設け、補助金を交付してこれを奨励した。このため県内の耕地整理地区は三十八年には二一地区を数えた。

 新方領では明治四十年六月、粕壁町と新方村から耕地整理基本調査の出願があったが、埼玉県では調査の結果、一ヵ町村の耕地整理よりむしろ領内連合して施行するよう指導していた。

 これに対し桜井村長は、明治四十年十一月、新方領耕地整理に関する協議会を開くよう、村会議員および区長に通知を出している。この協議会では、旧新方領二町七ヵ村の連合耕地整理は必ず実行すると認められるので、整理施行の事務を開始したいとし、(1)耕地整理発起人を定める。(2)発起人を定めたら、大字別もしくは部落ごとに土地所有者から整理同意の調印を取りまとめる。(3)参加土地原簿、参加土地権利者名簿等の事務を処理するため各町村に常務委員を設ける。(4)耕地整理委員が選出されるまで整理費用として一ヵ村一五〇円ずつ出資しておく。(5)各町村において土地所有者から同意書の調印を得たら、常務委員はこれを連合事務所に差出す。(6)連合町村で同意者の数が法定の条件を満たしたら、耕地整理実施調査設計の申請をなす。(7)事務所の位置を定める。(8)発起事務が進んだら連合各町村発起人会を開き、耕地整理規約、設計書を定め、続いて発起認可申請書を農商務大臣に提出する等の協議を行なった(越谷市史(五)七三三頁)。この結果選出された各町村の発起人は、翌四十一年三月三十日、発起人会を開き、原則として水田の地価は区域内総地価を総反別に割当て、その平均地価をもって各町村の総負担額を定め、また千間堀の排水を佳良にするため、その吐出し口を下流に移す等の大要を決議した。さらに同年六月二十一日の常務委員会では、耕地整理地区内の用水・排水が予期したとおりの結果を得られなかった場合は、当耕地整理地区全体の負担をもって相当の事業を施すという、領内連合耕地整理の原則が決議され、ここに、豊春村、川通村、大袋村、大沢町、粕壁町、武里村、桜井村、新方村、荻島村の二町七ヵ村と増林村の一部にわたる全国一の規模をもった新方領の耕地整理が計画にのぼった。そして発起事務長には奥田栄之助南埼玉郡長を推し、武里村大字大場光明寺内に耕地整理発起事務所が設けられた。

原形図