千間堀の伏越樋管と増林村

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耕地整理を施工するにあたり、まず領内の排水を良くするため、千間堀の伏越樋管の改良からはじめることにした。ところがすでに、この伏越樋管の改良をめぐって、下流の増林村では反対の運動がおこっていた。すなわち、この樋管の排水が良好になれば激流は村内の堤塘に衝突し、豪雨の際、村内の水害は免れないであろう。したがって樋管の施設は旧樋管と同一のものを採用するよう請願していたのである(越谷市史(五)七三三頁)。

 これに対し、南埼玉郡長は明治四十一年十月、千間堀伏越樋管の改良工事着手について増林村と交渉したい旨を通告した。この通知書は、「埼玉新報」の報道によれば、「今回大吉伏越樋管の改良工事着手に付き、篤と御協議の上円満の解決を得度候間、麁飯の用意致置候得ば、来る廿五日大沢町大松屋方へ村内重立両三名同道御出会相成度」とあった。ところが増林村長は「其出張を拒絶せんとしたるが、事苟くも一村永遠の利害休戚の岐るゝ所なれば、一応は地主と協議を為さんとて、直に二十余名の地主に通知を発し(中略)、同夜協議の結果、兎に角出席して村の希望を述ぶる事とし、即ち当日村長今井晃、榎本英蔵の両氏大松屋方に至り、郡長其他の者の列席中に於て縷々意見を陳述した」という。

現形図

 これに対し、管理者南埼玉郡長側は即答を避け、後日組合会を開いて何らかの返答をするとして当日の会合は終った。しかし南埼玉郡長は、翌十一月、増林村に対し何の回答もないまま、樋管改良工事の請負入札をなし、十一日には工事に着手するので立会われたいとの通知を増林村に発した。この通知に接した増林村長は「大に怒り該書状を返戻すると同時に断然其立会を拒絶」した。またこの通知は地元新方村へも出されたので当日工事着手のため出張していた役人が新方村長の立会いを要請したところ、これまた拒絶されてしまい、結局工事は仮締切りもできなかった。

 このような事態に至り、増林村では伏越樋管の工事絶対反対の気運が一層高まり、十八日には地主惣代として関根宗輔・榎本英蔵の両名が郡役所に出向いて、先の要求条件の回答をせまった。結局郡長の回答は要領を得ず、翌十九日には再び村内一〇余名の者が郡長に面談して回答を求めたが、南埼玉郡長は、増林村の要求はいれられないとの回答に加えて、さらに、水行をよくするため増林村地内の堀幅を広め、落口を移転する計画を示したので、増林村側は憤然として帰村した。さらに、増林村民は増林村と南埼玉郡長の意見は絶対に相反するものであるとして、二十日には村民が大挙して県庁におしかけている。

 このような紛争となった千間堀伏越樋管の改良をめぐる管理者(新方領耕地整理発起人会側)と増林村の反目はどこにあったのか。一つには、管理者側の強引さもあったろうが、その主なものは、排水々量の多少であり、新旧樋管の設計の相違にあった。

 設計についてみれば、旧形の木造樋管は、中央に支柱を立て、縦七寸角、横五寸角の木材を縦横に交叉させて四ヵ所の管からなっていたが、新設計の樋管は一箇の大排水口となっていた。しかも五〇度の傾斜であった落入口や排水口の角度は、新設計では三〇度に改められており、樋管の埋没方向も逆川に対して斜形から直形に変えられていた。増林村は、この設計・施工に起因する排水量の増大による水害を憂慮したのである。

 しかし管理者側としては、伏越樋管の改良は耕地整理の遂行上絶対必要であり、種々交渉の結果、増林村内の排水激突箇所に強固な防除工事を施すなどの条件を示し、四十一年十二月八日千間堀悪水路普通水利組合と増林村の協約が成り、一応の落着をみた。その協約条件とは、

 (1)大吉伏越樋管改良工事ニ付テハ現設計ニ異議ナキ事

 (2)改良樋管ヨリ吐出スル排水激突箇所ニハ堅牢ナル煉瓦除害工事ヲ施設スル事

 (3)堤塘ノ欠崩レ箇所ニハ修繕工事ヲ励行シ水行ノ便ヲ計リ下流村ノ安寧ヲ期スル事

 (4)堀筋ノ屈曲流水激突スル箇所ニハ堅牢ナル工事ヲ施設スル事

 (5)大字花田大字増林入会須賀堀落合下両岸掻場堤ハ現在ヨリ平均弐尺ノ上置根腹付ノ工事ヲ施設スル事

 (6)工事ニ関シテハ地元立会ノ上施設経営ヲ為ス事、但立会費ハ自弁ノ事

 (7)千間堀ニ関シテハ従来上流下流ノ関係ヲ尊重スル事

というものであったが、この協約は再編された新方領堀普通水利組合に権利義務が継承された。なお伏越樋管の改良工事は四十二年三月に竣工し、その名も新方領堀伏越樋管と改められた。

新方領堀伏越樋管