耕地整理には、排水施設の整備とともに、灌漑用水の円滑な導入が大きな条件であった。従来新方領の用水は、一部地域を除き、主として元荒川系に依存していたが、天水場地域も多かったため、耕地整理完成後は、多量の給水を末田須賀溜井から取水する必要に迫られていた。
この末田須賀溜井は、古くから末田大用水組合と、須賀堀用水組合の管理に属していたが、その灌漑面積は、末田大用水が一五三六町余、須賀堀用水が一〇六六町余であった。しかし整理後における須賀堀用水灌漑面積の増大から、末田大用水の取水量が激減することを恐れた末田大用水組合は、地主総代会を招集してこの対策に乗り出した。この結果明治四十一年十一月、末田大用水組合の委員は南埼玉郡長に面会を求め、用水不足の対策をただした。これに対し郡長は、
(1)四十一年度の調査によれば、いずれの圦樋も五分の一から三分の一の開口で植付・養水の供給を終えているので、耕地整理の結果旧用水区域外の土地に灌水しても旧来の用水使用地の水の欠乏は心配ない。
(2)耕地整理完了のうえ用水不足を生じたら関係町村と協議のうえ引入れを改造するか取入れ施設を新設する。
(3)川通村平野地内から末田須賀堰に至る間の圦樋六ヶ所は従来のままにし当分改造しない。しかし内部用水路の河堀は便宜を計り水行の便をはかる。
(4)耕地整理の結果末田須賀用水組合灌水反別以外に用水を引用する反別は、粕壁町付近一七〇町歩、大袋村大字袋山六〇町歩、大字恩間付近六〇町歩の合計三〇〇町歩ぐらいである。
ということであった。また、用水の水源について質問したのに対し、郡技手は、利根川であるとあいまいな答弁をしたため、組合側委員はこれに納得しなかった。
同月十九日、末田大用水組合関係町村の地主は、浄山寺に地主総代会を開き、将来の運動方法を協議するとともに、金二〇〇〇円を積立てて大々的に用水不足の対策運動を開始することをきめた。
同月二十六日、組合委員は請願書を埼玉県に提出したが、その要旨は、耕地整理のうち組合外の地域に引水する反別を調査すると七〇〇町歩におよび、「七百町の灌漑を須賀堀用水其他数ヶ所より引用する計画を為すに於ては、末田方は倍々養水の不足を生ずるは明白なり、(中略)他方面則ち水源ある相当の箇所より求水の方法を講ぜしめ、我組合人民の愁を避けしめ、田地相続上安堵を得せしめられん様相当の御措置相成度」ということであった。
ところで、新方領耕地整理における末田大用水組合と耕地整理発起人会の対立には、政治的な確執が介在していたようである。末田大用水組合管理者である出羽村長中村悦蔵ほか大塚善兵衛、有滝政之助らは従来政友会に籍をおき、活発な政治活動をしてきており、かつて教育費問題で郡長を批判してきたという経緯があった。また、新方領耕地整理の推進者が武里村の原又右衛門(のちに耕地整理委員長)であり、原が憲政本党に属していたこともあって、政友会対憲政本党という政争へ発展する可能性すらあった。もっとも、中村悦蔵自身、「埼玉新報」の報道によれば「中村は奥田郡長と感情の衝突する久しきにあれば、己れ末田大用水組合管理者たるを頼み、此の問題を利用し、彼れ郡長を攻撃するの材料と為すものなり」との巷説に答えて、「右等の如き感を抱くものなきにあらざるべしと雖も、這は公職上の関係より来りたる者なれば、余は敢て之れを利用し同氏を攻撃せんとするものにあらず、万一同氏に対し反抗せんとせば、他に種々なる問題のあるありて、決して此の如き問題を利用するの必要を認めざるものなり」とし、用水問題はあくまで農民―地主としての主張であるとしている。とはいえ、「此の整理区の裏面には、例の原又右衛門氏あるありて、総ての方案画策は同氏の意志より割り出さるゝ者にして、奥田氏は唯々表面的の事務長たるに過ずとの説もあれば、原氏の素行より見る時は、或は知事公の公平なる調停厚意も水泡に属するやも計られず……果して然らんには余も農民なり又た地主たれば、何時迄も管理者たるの故を以て、己れに不利益なるを知りつゝ沈黙して円満主義のみを採り居ること能はざるは人情自然の結果なれば、円満変じて片意地となり、男子の本領を顕はすべく、自ら進で之が首領たるを辞せざるなり」としており、原又右衛門への対決姿勢を窺わせている。
一方この新方領耕地整理については、県レベルの政友会でも反対であったといい、青木平八著『埼玉県政と政党史』によれば、「当時耕地整理に対する技術が官民共に極めて幼稚であり、従て県当局の立案した設計も決して完全とは云へないので、若し全国に範を垂れるこの耕地整理に失敗する場合には独り本県が他府県の物笑ひとなる許りでなく本県の農村振興上至大の障害となるので時期尚早となした」という。
このように郡内を二分する政争へと発展しかねない様相を呈してきた末田大用水組合と耕地整理発起人会の意見対立は、事態を重くみた埼玉県の懇望によって調停者が選ばれ、翌四十二年一月にいたってようやく収拾へと動きだした。