覚書の調印

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「一月十二日 内務省ニ知事ヲ訪問ス、末田用水組合対元新方領耕地整理地区ノ紛議ハ、郡ノ円満ヲ欠キ郡治上将来憂慮スベキ出来事ノミナラズ、友人中村悦蔵氏ノ身ヲ慮リ、昨夕駒崎幸右衛門・日下部泰助ノ両氏ト供ニ中村ノ意見ヲ聴カン為メ、東京ニ会見シ、略ボ同氏ノ意見ヲ承知セルヲ以テ、一方県知事ノ意見ヲ聴クノ必要アリ、本日知事ノ上京ヲ幸ニ内務省ニ待受ケタルモ知事来ラズ、空シク浦和ニ帰ル」

 これは飯野喜四郎の日記(『飯野喜四郎伝』「県政重要日記抄」)の一節である。紛争をかさねる耕地整理の用水取入れ問題は、こうして飯野喜四郎県会議員らの登場をみて、ようやく調停へと動きだした。だが、この調停も容易にはすすまず、一時は飯野・駒崎らの仲裁辞退があったりしたが、のちに川上参三郎の仲裁参加もあって、ようやく解決の糸口を見出した。

 この間両者の主張の相違は、用水引用反別に顕著にあらわれた。すなわち末田大用水側では一〇六町歩なら認めるが、用水分水の補償として三〇〇〇円の寄付を受け、これで水量維持のための浚渫工事をしたい、と主張したのに対し、耕地整理側では、ぜひ二〇〇町歩の承認を得たいとしている。

 飯野・駒崎・川上の三名は末田大用水組合と新方領耕地整理発起事務所に書状を出し、二月十七日県庁に双方の委員を召集した。午前一〇時交渉に入ったが、午後一〇時に至っても容易にまとまらず、ついに耕地整理側は山口屋に、用水側は伊勢屋に投宿し、仲裁人は夜を徹して両宿を往来し交渉にあたった。この間の状況を飯野は先きの日記の中で「一方ハ原又右衛門(耕地側)一方中村悦蔵氏(末田用水側)ノ両驍将其主張一歩モ譲ラズ仲裁人等殆ント当惑セリ」と記している。しかし調停者の努力によって、交渉に交渉をかさね、十八日午後三時ようやく交渉が整った。このとき調印された協定書は、「旧新方領耕地整理地区対末田大用水組合協商覚書」(越谷市史(五)七五三頁)と題するもので、九条からなり、その骨子は、耕地整理区域内反別二〇〇町歩の地区に用水の引用を認め、耕地整理地区は金一五〇〇円を末田大用水組合に提供する、というものであった。また、同日午後六時に調印を終えた関係者一同は、七時より上京し、上野公園常盤花壇において懇親会を催したといい、「本部(郡カ)ニ於ケル大紛争事件如斯シテ円満ニ解決ヲナシタリ」と日記は記している。