耕地整理地区内の反対

405~408 / 1164ページ

このような経過とは別に、耕地整理地区内においてもそれぞれの理由から耕地整理に反対する人びとがあった。その主なものは、一つには地理的条件から耕地整理地区外とするよう請願する人びとであり、また一つには耕地整理施行の方法に反対する人びとであった。前者は、その主な集会場所を平方林西寺としていたことから、林西寺派とよばれたが、のちには新方領北部の人びとと耕地整理を延期するということで一致し、同志をくり出して大々的に運動を展開するようになり、総じて延期派ともよばれた。以下その概略をみておこう。

 桜井村大字平方地内の地主は、四十一年一月、耕地整理の議がおこるやすぐさま「新方領耕地整理地区外期成同盟会」を組織した。同会の目的は、その規約によれば、(1)断然耕地整理地区外とすること、(2)会に実行委員を置き一切の事務処理を一任すること、(3)実行委員の通知があるまで耕地整理同意書に調印しないこと、というものであり、その理由として、平方は約二〇〇年前に耕地整理と同様の事を行い、用悪水の灌漑は独立しており、また当平方は耕地整理設計地の一隅にあって堤塘または溝渠をもって他字と界を画しているので、出費多端の今日あえて耕地整理をする必要はないこと等をあげている。このようなことから、まず四十一年四月十四日、平方地内地主七七名は南埼玉郡長宛に耕地整理地区除外申請書を提出した。これに対し南埼玉郡長は、すでに村内の重立において耕地整理施行に異議のない表明がある、として申請書を返戻したが、五月二十九日には平方地内地主五名を郡役所へ召喚して説諭にあたった。しかし地主一同はこれに満足できず、さらに県知事宛に地区除外申請をするため、平方林西寺にしばしば集会を開いた。

 一方、領内北部豊春村の一部では、南部の新方・桜井村との間に地価に大差があったため、地価均一を条件で整理に着手するのは無謀であるとして、これに反対した。すなわち、耕地整理によって用排水は他町村と同じ利益を得るが、地質を改良せず単に用排水を改良しただけで地価を均一にするのは不条理である、と主張した。しかし耕地整理反対の真の理由は、「戦後ノ財政暴漲ニヨル増税ニテ出費多端ノ今日不安ノ点多キ耕地整理ニ賛同スルヲ得ス」(平方『宇田川家文書』)という点に集約されていたようである。

 千間堀伏越問題や末田須賀溜井の用水取入れ問題で紛争中の四十一年十一月、根岸千仭(豊春村)、小島鱗四郎、中村恵忠寿(桜井村)らは耕地整理の延期申請書を南埼玉郡長に提出した。その理由は、耕地整理が有益にして国利を興し、民福を増進するものとして当初賛同したが、種々研究の結果次のような疑問点があるというのである。

 その疑問点とは、

 (1)基本調査当時の予算は、一反歩当り金五円四一銭九厘で成功する。このうち一円五〇銭は県の補助金でまかなうとあるが、各地の耕地整理をみると反当り一〇円未満で完了したことを聞かない。

 (2)千間堀通り大吉伏越樋管の伏替に着手するが、その下流の改修は第二期工事として整理完了の後に施工すると聞く。一般に悪水路の改修は下流より着手しなければ効果はない。

 (3)領内の連合整理は理論上合同経費をもって処理するのは差支えないが、経費を乱費する結果を招く。連合悪水路、連合用水路は連合経費をもって処理するが、その他は字ごとにその費用と工事を一任する方がよい。

 (4)元荒川から用水を供給するというが、元来この用水路は水源がなく雨が少ない時は用水に不足をきたし、同用水をもって全領に供給せんとするのは危険もはなはだしい。

という点にあった。耕地整理延期派は、以上のような延期申請書を郡役所に提出するとともに、また「旧新方領地主諸君に警告す」と題して、同様の内容をもった檄文を各地主に配布して耕地整理の延期をよびかけた。

 一方、耕地整理発起人会は、一日も早く事業に着手するよう事務処理を急ぎ、四十一年十二月二十八日、耕地整理発起認可申請書を農商務大臣に申請したが、翌四十二年一月二十二日に認可があったので同年三月三十一日に耕地整理創業総会を開くことになった。

 これに対し、延期派は認可の翌日さらに「注意書」(越谷市史(五)七四二頁)と題するビラを地区内地主に配布した。これは、発起申請書が大臣より認可になったとしても、土地所有者全体の会合すなわち創業総会において三分の二以上の賛成がなければ整理に着手することはできないので、耕地整理を延期させるよう「猶一層手ヲ広ケテ同志者ヲ集ムル事ニ尽力セラルヘシ」との内容であった。こうして、延期派・整理派とも土地所有者の獲得に狂奔し、なかには所有地の分筆を要求して杉戸の登記役場におしかけることもあった。