第二回総会以後、延期派の一部では、事態が最早ここまで進んでは延期運動の効も薄く、紛争の煩わしさから一日も早く解放されたいとの気運が強まり、認可を得た耕地整理設計書を独自で調査しようとする動きもみられた。また、領内の有力者に調停を依頼し、円満解決を望む声も高まり、武里村大垣六郎左衛門と大袋村細沼貞之助が両派の仲介に入った。
四十二年五月十一日、前後四回一週間にわたる交渉の結果、次のような内容の調停案が両派に提示された。その骨子となるものは、設計に不安あるときは九月までに任意に調査をなし、事実支障があったら変更すること、整理委員を一六名増員し延期派においてこれを内定すること、監査委員九名を置くこと、整理地区は事業進行のため延期派に対し全地区内の工事着手後三〇日以内に一五〇〇円を支出すること等となっている。しかし、延期派は余儀なくこれに同意したものの、整理側では、委員の増員と金円の支出は熟慮を要することなので来る十七日に確答するとした。だが六月に至っても何ら回答がなかったので、仲介人は七月六日、整理事務所に整理派交渉委員の集合を要請したが参会した者は少数で意見を発表する者もいないありさまだった。仲介人はしかたなく七月末日まで回答を待つこととしたが、この間県庁に出向して整理派側への注意を乞うとともに、南埼玉郡長にも同様の懇請をした。しかしそれでも誠意ある回答が得られなかったので、大垣・細沼の両名はついに八月二十三日、整理派側の「協商して平和の下に整理を為すの誠意なきやを疑」うとして仲介を辞退した。
こうして整理派は延期派との調停を拒否したまま、耕地整理の準備を強引におしすすめた。ついで四十二年九月十六日、耕地整理委員会は委員長に原又右衛門を選任したが、原はすぐさま「耕地整理進捗に際し再ひ至誠を披瀝して全領一致を望む」(越谷市史(五)七四四頁)旨を領内地主によびかけた。
十月十六日、委員長ほか整理委員は登庁して工事着手届および技師派遺願書を知事に提出し、十一月五日からは領内十ヵ町村に立入調査を実施することになった。
この間、延期派との調停決裂を憂慮した県知事は、末田大用水問題の解決に功のあった飯野喜四郎と田中四一郎(潮止村)に仲介を依頼したが、両名は十月二十六日郡役所に延期派(林西寺派と東養寺派の二派)を召集して妥協に応ずるかどうかを交渉した。「埼玉新報」の解説によれば、整理側がいままで調停を拒否してきた主な理由は、耕地整理組合において整理費の借入れをする場合委員の調印が必要であり、委員のうち一名でも調印を拒否すると借入れができず、したがって延期派からの委員増員は認められなかったという。しかし今般の法の改正によって委員長一名の調印でも借金が可能になったので、整理委員の増員は認められることになったという。こうして、十一月一日飯野・田中の尽力によって、新たに六名の委員を増員すること、設計上支障の有無を調査するため九名の調査委員を選定するが、この調査費用は整理費より支出すること等の仲介案が示され、十一月六日には調停がほぼととのった。