測量から竣工まで

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こうして耕地整理事業の第一歩である測量にとりかかったが、延期派のうちなお整理着工に反対する人びとは、杭打現場におしよせ工事をやめるよう要求して、しばしば混乱をひきおこしたりした。このため警察官の出動も頻繁に行われ逮捕者も出るありさまだった。だが地区内農民のほとんどは、耕地整理を一致して推進して行こうとする気運にあり、のちには工夫となって整理事業をすすめる者もあった。まず施工方法を示すため、技術官の監督指導のもとに各所に模範工事が行われ、用水と排水の分離独立と、反区を長辺三〇間短辺一〇間の一区画一反歩として道路を縦横に直通にするなど、幹線から逐次支線へと工事をすすめていった。また、各部落には集合苗代や共同苗代を選定して稲作の植付に支障のないようにしたり、種籾統一選定をするなど、農業生産力の向上には常に配慮を怠らなかった。

耕地整理前(写真上)と整理後

 しかし工事の過程でもいくつかの困難を生じた。明治四十三年九月には大水害が発生し(本章二節参照)、各所の堤塘が決壊したためその復旧工事につとめなければならなかった。また、用水施設整備の一環として、上間久里から大泊に至る須賀堀用水の分流をさらに平方地内まで延長する計画であったが、土地が高く用水に悩む大泊地内から反対があり(越谷市史(五)七五〇頁)設計の一部を変更しなければならなかった。またかねて懸案であった千間堀下流の開さくは増林村の強い反対のため、その実施が遅れていたので、地区内農民から早期完遂の要望が出されたりした。

 さらに、大正四年二月には耕地整理の中心人物の組合長原又右衛門が急死したが、後任には尾崎麟之振が任ぜられ、事業が進められた。かくて大正五年三月すべての工事はここに完了した。

 耕地整理総面積三〇九三町歩、総工費一九万八一三二円、その規模の大きさは当時日本一といわれたが、整理前後の地目別面積は第104表のとおりである。耕地整理の結果、用排水の完備(第105表)と反区の整備がなされたのはもちろんのこと、二毛作田が増大したのは顕著な事績であった。

第104表 整理前後における地目別面積
地目 整理前 整理後
町   町  
一毛作田 2,004.3201 1,489.7000
二毛作田 15.9800 596.5000
700.9426 682.0501
山林原野 19.5829 16.3119
その他 1.9726 3.3925
国有地 144.1219 264.1307
宅地 101,846坪5合8勺 117,142坪8合5勺
地区内面積合計 2,910町3,107歩58 3,093町3,528歩85

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第105表 整理施行後の用水系(元荒川の分)
圦名(旧圦名) 村名(大字名)
増ノ川圦(増戸圦) 川通村(長富),豊春村(増戸,増富,南中曾根,新方袋,谷原新田)粕壁町,武里村(一ノ割,薄谷)
武徳川圦(六ヶ村圦) ○武徳川系,川通村(長宮,増長,大谷),武里村(増田新田,薄谷,中野,備後,大場,大畑,大枝)
○大谷川系,川通村(長宮),豊春村(上大増新田,下大増新田,谷原新田)
大野島圦 川通村(大野島,字谷,大口)
三大川圦(三ヶ村圦) 川通村(大戸,大口,大谷)
須賀圦 ○須賀川系,川通村(大戸,新方須賀,大森),大袋村(恩間新田,三ノ宮,大道,大竹,恩間,袋山,大林,大房),荻島村(南荻島)桜井村(下間久里,大里),新方村(弥十郎),大沢町
○間久里川系,大袋村(恩間,大竹),桜井村(上間久里,大泊,平方)武里村(大枝)

「埼玉県新方領耕地整理組合竣工記念」より作成