明治初年には神仏分離政策の遂行にともなう神社整理があったことは前に記したが、明治末期にはこれまでかつて無かった大がかりな神社整理が政府の主導性のもとに行われた。
日露戦争後政府は地方改良政策を打ち出し、さまざまの改革を企て、あるものは実施に移されて行ったが、神社崇敬の分野においてもそれは発動の舞台を見出すことになった。
明治政府は、明治三十三年、文部省社寺局を神社局と宗教局とに分割したことで示されるように、神社はふつうの意味の宗教ではなく、「国家の宗祀」であり国民教化の基本をなすという風に考えていた。しかしその神社が全国にわたってあまりにも数多く(三十九年当時一九万)、そのうちかなりの数のものが「神社ノ体裁備ハラズ、神職ノ常置ナク、祭祀行ハレズ、崇敬ノ実挙ラザル」という状態であることに気付いた時、地方改良政策の一環としてこれの整備を行なわねばならぬと決意したようである。
そこで明治三十九年八月、内務省の方針を示したものとして、「神社合併跡地は合併神社に無代譲与することができる」という趣旨の勅令が出され、これによって神社局を中心に神社の整理、すなわち統廃合が推し進められるに至った。