しかしながら、その実施上の権限は多く各府県知事に握られていたようであって、府県によって整理事業の進捗はたいへん区々であった。もっとも強度に実施されたのは和歌山・三重の両県で、神社数の九割が整理されたが、青森県などはほとんど実施されなかったといえる。隣りあった県でありながらきわだった差異を生じた例さえある。
ともかく一九万あった神社が、四十年末に一七万七〇〇〇、四十一年十一月末に一六万三〇〇〇、四十二年六月末に一五万三〇〇〇、大正二年六月末には一二万七〇〇〇にまで減った。まる七年の間に六万三〇〇〇の神社が廃止されたわけである(神祇史年表による)。
こうした全国傾向のなかで埼玉県はどうであったか。第106表は、森岡清美氏「明治末期における集落神社の整理」(東洋文化四〇号)に掲げるものの一部分であるが、埼玉県は、県社から無格社に至るまで四八一三社を減じており(表は明治三十六年と大正二年との十年間の比較であって七年間というのに異なるが、三十六年と三十九年とでは数はほとんど変らないので、考慮に入れる必要がない)、その点では隣接府県をぐんと引離している。
しかし埼玉県は他にくらべ、もともと神社数が多かった。これは明治初年の時にあまりはげしく整理しなかったということによるのであろう。したがって、一社当り戸数のところを見ると、この期間での増加数は群馬に遠く及ばないのである(最もはげしい三重県では六一八〇社を減じ、一社当り戸数は二二二に増加している)。
府県郷村社 (A) |
境外無格社 (B) |
合計 (A+B) |
現住戸数 (C) |
C/A | C/A+B | 10年間の変化 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
神社数 (A+B)の減 |
1社当り戸数 (C/A+B)の増 |
||||||||
総計 | 明治36年12月末 | 56,180 | 136,947 | 193,127 | 8,725,544 | 155.31 | 45.18 | 70,705 | 34.22 |
大正2.12.末 | 49,731 | 72,691 | 122,422 | 9,720,436 | 195.46 | 79.40 | |||
群馬 | 明治36.12.末 | 1,101 | 2,913 | 4,014 | 141,060 | 128.12 | 35.14 | 2,610 | 76.13 |
大正2.12.末 | 875 | 529 | 1,404 | 156,221 | 178.54 | 111.27 | |||
埼玉 | 明治36.12.末 | 1,914 | 5,119 | 7,363 | 194,987 | 101.87 | 26.48 | 4,813 | 55.93 |
大正2.12.末 | 1,518 | 1,032 | 2,550 | 201,148 | 138.44 | 82.41 | |||
千葉 | 明治36.12.末 | 2,319 | 4,808 | 7,127 | 222,753 | 96.06 | 31.25 | 2,071 | 14.48 |
大正2.12.末 | 2,221 | 2,835 | 5,056 | 231,209 | 104.10 | 45.73 | |||
東京 | 明治36.12.末 | 705 | 1,714 | 2,419 | 569,496 | 807.80 | 235.43 | 525 | 150.20 |
大正2.12.末 | 681 | 1,213 | 1,894 | 730,386 | 1,072.52 | 385.63 |
森岡清美「明治末期における集落神社の整理」より
もっともこの四八一三社減少という数字は東日本では随一(長野が三五九八、秋田が三五六〇)であるから、やはり内務省の方針に順応して整理を積極的に推進したことは否めない(三重県のように一村一社にするという強い指導はなかったらしい)。