合併前の状況

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たしかに神社の数は多すぎたかもしれない。しかし一大字一社という単純なかたちに当時必ずしもなってはいなかった。たとえば、明治二十年の蒲生村地誌の神社の項(越谷市史(六)一二四頁)を見ると、村社久伊豆神社は蒲生村総鎮守(当時の蒲生村はのちの大字蒲生のみ)で「全村協同シテ維持」しているとし、以下、字村添にある神明社(以下すべて平社すなわち無格社)は「小名見田方組ノ内信徒拾七戸ノ氏神」であり、字天神後の天神社は小名東組の四六戸、字村添の久伊豆神社は小名西組の六五戸、字道沼の八幡社は小名道沼組の一四戸の各「氏神」であるとし、さらに字道沼の稲荷社については「小名道沼組ノ信徒拾四名ノ者、氏神ニハアラサレトモ、協同シテ祭典ヲ毎年三月十五日ヲ以テ之ヲ営ム」とある(ほかに荒神・日枝の二社を掲げるがこうした解説はない)。

 このように大字の中の組ごとに鎮守社が祭られているという状況があれば、神社を統廃合せよとよびかけても、村人たちは乗り気にはならなかったわけだ。ただ右の蒲生村の場合、道沼の稲荷社以下の三社については合併の勧告が説得力あるものになり得る。

 平方のように大きな村落の場合はこの蒲生の例によく似ている。しかしこれほどでなくても組鎮守社が保持されている例は多かった(山間部ではこれが同族的単位になる場合が多くていっそう強固である)ので、合併はなかなか軌道に乗らなかったといえる。

向畑の香取神社