整理の経過

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明治四十年の五月にもなると、南埼玉郡役所の吏員が各地に出張して勧奨して廻った。「当日を限って合併願提出を勧奨」(深野家「公用書類」)とあるから、合併の促進に奔走していたことがわかる。

 六月二十日郡役所から、「神社合併ノ義ニ付テハ曩キニ吏員ヲ派シ、及談示候次第ニ有之候処、今以テ願書御提出無之、右ハ此際是非ニ実行ヲ要シ候条、本月末日迄ニ必ス願書提出セシムル様関係者ヘ説示方御取計有之度」と各村長宛督促が出された。

 これと引替のように桜井村では天神社ほか四社の各合祀願が提出され、とりまとめて村長が郡役所へ送った(二十一日付)。

       神社合祀願

                           南埼玉郡桜井村大字下間久里字八反田

                                    無格社  天神社

 右神社義ハ崇敬上設備ノ完全ヲ期シ度候ニ付、本殿祭神ハ同所村社香取神社本殿ヘ、境内天照皇大神祭神ハ同社境内御嶽社ヘ合祀致度、但跡建物ノ義ハ取崩シ修繕用材トシテ備置度、此段奉願候也

                                南埼玉郡桜井村大字上間久里

                       明治四十年五月三十日 無格社天神社々掌

                                            八坂琴之助印

                                 無格社天神社信徒総代人

                                            (省略)

                                 村社香取社々掌

                                            八坂一印

                                 村社香取社氏子総代人

                                            上原治郎左衛門印

                                            吉岡吉兵衛印

                                            小倉三左衛門印

     埼玉県知事大久保利武殿

    前書之通相違無之候也

     明治四十年五月三十日

                                    南埼玉郡桜井村長田川新三郎

 

 これが天神社の分、ほかに下間久里字鯛ノ島の稲荷社(これは建物が「腐朽シ価格モ無之モノニ付其儘焼却致度」とある)、大泊字根田の香取社、大泊字雉子田の権現社、大泊字塚田の雷電社、合計五社(すべて無格社)がまとめて届出された(庶務土木収受書類)。

 桜井村ではこのあと八月六日に合祀について村内協議会が開かれている(庶務土木収受書類)。合祀開始前は村社五、無格社一四、計一九あった。右の五月付の届で、上間久里・下間久里・大泊の分は無格社が無くなってしまい、済んでしまったといえるが、平方に八社、大里に一社残っている。平方は前に触れたように組鎮守が多いので難航するのは当然である。その後折衝が続けられたのだろうが、「神社明細帳」(県立文書館蔵)によれば、大里の八幡神社が村社稲荷神社の境内に移転(こういう解決法もあった)に決定したのが四十一年十月、平方の八社中三社が村社浅間神社に合祀ときまったのが四十五年の七月であり、けっきょく桜井村内に五社の無格社が合祀されずに残ったのである(内一社は大正十四年に合祀)。