明治四十一年七月になると、近隣の草加(但し北足立郡)では合祀が促進されて、氷川神社が一一社を合祀して草加神社と改称した(「草加の歴史」)。越谷市域でも、これほどではないが大幅な合祀が現われてくる。増林村増森の村社水神社は四十五年五月無格社五(郡村誌では第六天社を脱している。ここは明細帳に従う)を合祀し、大正三年増森神社と改称した。同村増林の村社香取社と無格社四社および同村中島の村社と無格社一社は、大正二年一月そろって増林の浅間神社(無格社)に合祀し、同時に浅間神社は村社護郷(もりさと)神社と改称した。
郷社久伊豆神社は、明治三十五年上地林(官有地)四段七畝一歩を境内編入することを許されており、広大な社地が確保された。そして四十二年一月出羽村神明下の無格社三社、四十四年十二月同村谷中の村社一と、無格社二、四十五年三月神明下の村社一・無格社一、同年八月(大正と改元)に増林村花田の無格社一を合祀した。合計村社二・舞格社七を合祀したわけで、越ヶ谷の久伊豆神社は護郷神社とならんで大幅な合祀であったといえる。
大袋村大竹の村社香取神社は明治四十年三月無格社五を境内に移転して境内社とし(うち一社は合祀して境内地としたとある)、同四十年十月無格社一を合祀して、社号を大竹神社と改めた。
大字名を社号に付けたのは以上二例(増森・大竹)のほか、もう一例ある。大袋村大道がそれで、ここの香取神社は四十年十二月無格社二を合祀して大道神社と改称した。
大相模村西方の村社日枝神社は四十年十二月無格社五を合祀した。いちばんおくれてしまったのは蒲生村蒲生で、前にも述べたように無格社七社あり、うち四社は明らかに組鎮守であった。おそらくそのためであろう、ようやく大正四年十一月になって七社がそろって村社久伊豆神社に合祀された。