寺院の整理

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右に述べた神社整理と併行して行われたのが寺院整理である。前後するので申訳ないが、これら神社・寺院の整理合併の出発点となった法令は、まず左の明治三十九年八月九日勅令二二〇号である。

  神社寺院仏堂ノ合併ニ由リ、不用ニ帰シタル境内官有地ハ、官有財産管理上必要ノモノヲ除クノ外、内務大臣ニ於テ之ヲ其ノ合併シタル神社寺院仏堂ニ譲与スルコトヲ得

というのであり、明治初年に強行された寺院整理の場合と趣を異にする。この跡地譲与の処分は、同年十月四日の内務省訓令をもって地方長官へ委任された。

 また同年八月十四日神社宗教両局長依命通牒、社寺合併並合併跡地譲与ニ関スル件というものが、社寺合併推進の趣旨を明示しているので左に掲げてみる(内務省神社局編『神社法令輯覧』)。

  今般勅令第二百二十号ヲ以テ神社寺院仏堂合併跡地無代下付ノ件発成相成候処、右ハ府県社以下神社ノ総数十九万三千有余中、由緒ナキ矮小ノ村社無格社夥キニ居リ、其ノ数十八万九千余ニ達ス、此等ノ内ニハ神社ノ体裁備ハラズ、神職ノ常置ナク、祭祀行ハレズ、崇敬ノ実挙ラザルモノ少カラズ、又寺院ノ数ハ七万余、仏堂ハ三万七千有余ノ多数ニシテ、此等寺院仏堂中ニハ堂宇頽廃シ境内荒廃シ法用行ハレズ、其名アリテ殆ンド其ノ実ナキモノ鮮シトセズ、故ハ斯ル神社寺院仏堂ハ成ルベク設備ヲ完全ナラシムルト同時ニ、神社寺院等資産ヲ増加シ維持ニ困難ナカラシメ、神社寺院等ノ尊厳ヲ計ラントスルノ旨趣ニ出デタルモノニ外ナラズ候条、此ノ趣旨ニ基キ右等ノ神社寺院仏堂ハ成ルベク合併ヲ行ハシメ、仏堂ニ在リテハ其ノ管理ニ属スル寺院若ハ最寄寺院ヘ合併セシムルカ、又ハ寺院境内ニ移シ境内仏堂ト為サシムル方法ヲ講ゼラレ度、而シテ合併跡地ノ下付ヲ受ケタルトキハ管理上右下付ノ旨趣ニ悖ルガ如キコト無之様厳重監督相成度

 すなわち神社のみでなく寺院仏堂も整理の対象にしていたのであった。ただ神社の場合は村落との結び付きが濃いために、思想的習合的問題がからみやすいし、その点県によっては強行推移をはかることになっていったのに対し、寺院仏堂はさほどの緊迫性を伴わなかったので目立たないのである。

 この政策にもとづいて、越谷市域でも寺院の整理が行われた。新義真言宗豊山(ぶざん)派についていうと、明治三十九年十一月より大正六年五月までに整理合併が五九件あるうち、越谷市域に関するものは左の六件である。(南埼玉郡は郡名を略す)

 明治四〇・四・二三 北葛飾郡三輪野江村東眼寺→大相模村慈眼寺へ

 明治四一・一・二〇 大相模村宝性院→川柳村大字柿木東漸院へ

 明治四一・八・一五 増林村東正寺と同村宝蔵院→同村宝正院となる(旧東正寺位置)

 明治四二・一・七  大相模村慈眼寺と同村東陽寺→同村金剛寺となる(旧慈眼寺の位置)

 明治四四・六・八  大相模村福寿院→同村大聖寺へ

 大正六・五・二八  大相模村安養院→同村大聖寺へ

    (各寺院の大字名については越谷市史(一)の一一九八・一一九九頁を参照されたい)

 右のほかに、明治三十九年二月二日増林村大字東小林の新義真言宗豊山派蓮乗院を、同大字東福寺に合併する件が出願され、同月二十七日県より許可された。ただし、旧蓮乗院跡地(官有地荒蕪地一反二歩、実測一反二畝二一歩)の地所と立木五二本については、勅令第二二〇号(前掲)発布以前にかかる合併であるとの故をもって、無償譲渡にはならなかった。土地は二八円六〇銭、立木は一五円三〇銭で払い下げられたのである。この蓮乗院合併の議は、内務省の整理政策が打ち出される以前に起ったもので、明治初年の法令にもとづいて発議されたのであろう(「寺院ニ関スル諸願届書綴」明治二九~大正三年による)。

東小林東福寺