キリスト教の伝道

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江戸時代初頭に、越谷市域にキリシタン宗門の類族が居住していたらしいことは、本書第一巻(越谷市史(一)五〇六頁)に述べた。当時のキリスト教は幕府から邪宗門ときめつけられ、その信者を草の根をわけても摘発するという峻烈な政策の前に、あいついで殉教者を出しながら根絶せしめられていった。

 明治初年にはそうした禁制が解けて、外国人宣教師が続々来朝、横浜や東京築地のような外国人の多く居留する地区を拠点に、各地へと急速に伝道の手が拡げられていった。

 それら宣教師団の中にジャーマン・リフォームド・ミッション(German Reformed Mission)と称するものがあり、主としてアメリカ合衆国人により構成されたキリスト新教(プロテスタント)の一派であった。その中心人物はムーア(Jairus P. Moore, D. D.)で、明治十六年に来日、大正十二年まで日本で伝道に従事した(明治二十年以後は仙台を拠点にした)。このムーアを援けて活動したのがグリングで、明治十七年には東京日本橋区元大工町(現在の中央区八重洲一丁目の一部に当る)に教会堂を建て、ムーアの指揮のもとに、埼玉県の越ヶ谷、岩槻、東京府の王子方面に伝道を開始した(『植村正久と其の時代』第三巻)。日本人の正木定安という者が補助者として随行した。かれらの路傍説教を聴いて感動したのが、越巻村(現在の越谷市新川町)の農民吉田兼三郎らで、一説には米を販売すべく車を曵いて鳩ヶ谷町に赴いた時に路傍説教に遭遇したともいい、また一説に新田村(現草加市)であったともいう。

ムーア宣教師(『植村正久と其の時代』より)

 『越谷教会七十年史』(昭和三十八年十二月発行)によれば、吉田らはキリスト教に接して、あたかも夢から醒めたかのように、奉教の念忽然と湧き、グリングに、度々越巻村に来たってキリスト教を説いてほしいと申出で、村の有志を熱心に歴訪してキリスト教伝道を協議した。二ヵ月後の六月十五日、正木は、モール博士(前記のムーアのこと)をも同伴越巻村に来り、吉田は家を開放して村人たちを集め、モール博士らは吉田宅に泊りこんでキリスト教を説き続け、十六日の夜吉田ら四名のものがグリングから洗礼を受けるに至ったという。

 明治十七年であるから、埼玉県下のキリスト教入信者としてはけだしもっとも早期に属するであろう。越ヶ谷の中心部でなく、街道筋からもやや離れた、純農村の地にこうした宗教上の変化が生じたのは注目すべきことである。

 越巻村中新田には、連年祭当番により村の大事件を書き留められる慣例の「産社祭礼帳」というものがあるが(越谷市史四ノ八六二頁以下、および六ノ一九四頁以下)、その明治十九年の条に付記して、

  明治十九年春当番中村清蔵・嶋村留次郎八十宗ニ相成候、当番組合ニ(ヲ)相成候改メ、坂巻・斎藤両人新組合当番ト取極候也

として、坂巻・斎藤を加えた五人が署名し、また翌二十年条には

  当氏守ノ産社組合ハ往古トハ莫大ノ違ヒナリ、我組内ノ耶蘇教社弐名出来候ニ付、夫ヲ除キ残リ新組合ト決定ス

として六人が署名している。キリスト教信徒が発生したので、鎮守社の祭礼の組織を改組する必要が生じたのである。洗礼を受けた四名のうちの中村清蔵は、明治四年、七年、十年、十三年、十六年と既に五回も、組の者とともに祭礼当番を勤めたのであるから、越巻の村人に与えた思想的反応が甚大であったこと想像に難くない(吉田兼三郎は越巻村丸の内の住民なので右の産社祭礼帳と関係がない)。

 こうした中にも信徒たちの決意は固く、正木安定と協議した結果、越ヶ谷町に進出伝道するのが将来のため最もよいとして、十七年八月には越ヶ谷町俗称仙元坊の地に借家を借りて伝道を始め、やがて二十二年十一月、九名(うち婦人三名)の受洗者を迎え、教会設立式を挙行した。その後説教所はしばしば移転したが、三十一年から大沢町二七番地に定まり、さらに四十一年十月から越ヶ谷町二五六番地に移って大正十三年まで動かなかった。

 明治期のキリスト教伝播状況は、はじめ都市・農村にあまねく伝道が行なわれたとしても、やがて都市に集中する傾向を生じ、農村にその信仰の土着化した例はきわめて少ないといわれている。この点越谷地域の場合どうであったかというと、吉田兼三郎らの伝道熱心のため漸次農村地域に浸透しゆき、ことに越巻とはかなり離れた増林地区への進出がめざましく、また最初の受洗者の一人が足立郡清右衛門新田(現草加市清門町)の農民であったことから、新田村(明治二十二年町村制により成立)方面にも進出が見られた。第107表は、工藤英一「明治後期農村教会の動向に関する一試論」(明治学院論叢第五二号第二輯所収)から転載したものであるが、明治十八~十九年の出発時点ののち、二十二年、三十一~三十二年、三十五年、四十二年などに、伝道成果の高揚が見られるが、一見して明らかなごとく、農村地域に着実な伸びを示している。

第107表 越ヶ谷教会地域別信徒数
地域別 増林村 出羽村 大沢町 越ヶ谷町 新田村(清右衛門新田ヲ含ム) 埼玉県内 その他 不明
受洗転入年代
明治17 5 1 6
〃 18 10 11 1 2 1 1 26
〃 19 5 2 3 1 11
〃 20 4 2 6
〃 21
〃 22 4 2 3 9
〃 23 2 2
〃 24 1 1 3 5
〃 25 1 1 2
〃 26 1 1 2
〃 27 1 1 1 3
〃 28
〃 29 2 2
〃 30 1 2 3
〃 31 3 6 3 4 1 2 19
〃 32 1 4 1 2 1 1 10
〃 33
〃 34
〃 35 1 1 3 1 2 8
〃 36 2 2 4
〃 37
〃 38 1 1
〃 39
〃 40 1 1 4
〃 41 2 2 3
〃 42 2 1 2 3 4 12
不明 1 1 1
37 23 19 14 11 15 6 4 139

工藤英一氏による

 このように越谷地域におけるキリスト教信仰の伝播が全国的にもめずらしい農村定着型を採ったことはたいへん注目すべきことである。