天理教の布教発展

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明治期になって越谷にもたらされた新宗教は、キリスト教だけでなく天理教もあった。

天理教は、大和国山辺郡新屋敷村の農家の主婦中山みきが、天保九年(一八三八)に開教した宗教である。かの女自身病気その他の災難を救う霊力の保持者として渇仰され、その信仰圏は急速に拡がり、慶応三年(一八六七)には一ヵ月のあいだに本部への参詣者が二一七四名にのぼったという(小栗純子「近代社会における教派神道の発展」アジア仏教史日本編Ⅷ所収)。その頃からみきは、教理の根本となるべき、一二段より成る「かぐらうた」、および一七一一首にのぼる「おふでさき」の述作を始めている。

 みきは明治二十年二月に世を去ったが、その頃には天理教信徒の分布は近畿一帯から東西に拡がりつつあり、二十二年には東京市に東(あずま)、日本橋の二教会が成立し、さらに翌二十三年に同じく牛込、深川、二十五年には浅草と教会成立が続いた。

 埼玉県では二十五年四月の立野堀、同年九月の秩父の二教会がもっとも早い。立野堀とは南埼玉郡八条村大字立野堀(現草加市)のことで、この地の高橋庄五郎が家族の病気について深い悩みをもっていたのを、東京浅草の布教師に救われたことに教会は始まっている(現在立野堀大教会は草加市稲荷町にある)。

 この高橋ほか一名から信仰へ導かれた人びとの中に、大沢町の高野柳蔵とその母ふじがあり、この両人と大沢町の金物商深野太郎右衛門とが力をあわせて布教に努め、浅草支教会に属する大沢布教所の設立を二十五年四月に達成した。

 二十七年から二十九年にかけて、埼玉県東南部には浦和、川口、安行、鳩ヶ谷、青柳(久喜市北青柳)、清久等の布教所が続々設立されたが、越谷地域にも早くから教線が伸長したのは大沢布教所が伝道の中心となったことによる。

 現在大沢分教会には創設当時の諸記録が保存されているが、その中の初期の「講名録」すなわち天理教の布教を継続して聴くことを申込んだ人びとの名簿によると、明治二十四年(布教所認可以前)の八月には、早くも大沢町で二一名(うち女子一)、桜井村・越ヶ谷町・大袋村各一名が加入しており、十一月には大沢二、越ヶ谷一、十二月には大沢二、大袋二、増林・小久喜・新和・大相模各一がそれぞれ加入している。

明治25年の講名録

 二十五年の加入者は五二名にのぼり、その内訳は、大沢一一、大袋六、柏崎六、荻島五、越ヶ谷四、新和三、大門(北足立郡)三、武里・粕壁・戸塚(北足立郡)・東京市浅草区各二、新方・和土・神根(北足立郡)・東京市神田区各一となる。こうして翌年には北葛飾郡・北埼玉郡にも及んでゆき総数一四二、翌々年には一六九、つぎの二十八年には実に七二〇と激増の一途をたどり、三十年四月には当初以来二〇〇〇に達している。もちろん退会と朱書した者も多数にのぼるが、その旺盛な布教開拓ぶりは目を見はるものがある。

 年齢について見ると、明治二十五年から三十三年までの「御授(おさずけ)拝受名簿」(この方は単なる聴講でなく信仰を表明した者と思われる)によれば、二〇歳代四〇人、三〇歳代二九、四〇歳代三〇、五〇歳代一七、六〇歳代七、不明五、となり、青壮年層が断然多い。新宗教として魅力をもっていたことが明らかである。この時期には婦人の入信はあまり多くない。

 前記越巻村の「産社祭礼帳」には、明治三十三年中の事件として、「越ヶ谷・浦和間電信ヲ架設ス」のつぎに

  七左衛門天理教会開会式アリ

と記し、一五年前のキリスト教信徒発生につづく新宗教としての天理教が印象づけられている。これはおそらく四丁野分教会が教会として認可された時を示すものであろうか。同教会は立野堀からの分出で、初代教会長金子喜助は、当時「はだしの喜助」という異名をとったほどの活動家で、既に二十八年二月に布教所を設立したのであった。

 そのほか、現代の北武分教会(越谷市弥生町)が三十年十月に、大間野分教会(越谷市大間野)が三十一年三月に、神明内分教会(越谷市東方)が三十二年五月に設立されたという(『埼玉教区史』)から、大沢の教会を中心とした伝道が本市域とその周辺に旺盛にくりひろげられていたことが確である。