本市域には信心と娯楽とを兼ねたような講の行事が盛に行われていた(『越谷市民俗資料』参照)。その大半は江戸時代からの継続であろう。そうした中にあって、明治十七年から始められた「三郡送り大師」の信仰行事がある。三郡というのは、南北足立と南埼玉とであり、南足立郡とは西新井大師(総持寺、新義真言宗)のある東京都足立区である。三月二十五日頃代参者三十人ほどが各村々から集まって、出発の村(年々かわる)で念仏を行い、それから四月十日まで村々を廻る。宿泊する者もある。念仏と御詠歌と踊り(所により小念仏(こねんぶつ)といわれているもの)とを催しつつ村々を廻るが、はじめは西新井大師である。春のたのしい、遊山(ゆさん)を兼ねた信仰行事であった。
明治十年代は、維新の改革がようやく農村風俗にも及んできて、農民が自由な空気を吸って行楽に出歩き始めた時代で、真言宗系統の寺院・檀徒の間に、四国八十八ヵ所や西国巡礼のミニチュア版を編成することが行われた。取手地方を中心にした新坂東八十八ヵ所とか猿島(さしま)三十三ヵ所などこの期に成立し、なかなか繁昌したもようである。三郡の送り大師というものもその風潮の一環であった。
この送り大師については、蒲生の大熊治右衛門、同遊間甚平、稗田(現川口市カ)の小川寅造などが中心となり、明治十七年から二九名によって行われていたが、高野山大明正院において十善戒を受け、法名を覚法と称した大熊治右衛門によって、明治三十六年四月、蒲生の光明院境内に巡拝供養塔が建立された。開眼導師は真大山主隆円大和上(西方大聖寺住職)である。この供養塔に刻まれた八八ヵ所の巡拝寺院を挙げると、次のごとくである。
一番 西新井 総持寺
二番 伊興 地蔵院
三番 同 実相院
四番 入谷 円通寺
五番 新里 千蔵院
六番 谷塚 宝寿院
七番 瀬崎 善福寺
掛所 草加 東福寺
八番 篠葉 東正寺
九番 中曾根 大日堂
十番 槐戸 観音寺
十一番 青柳 三蔵院
十二番 同 東覚寺
十三番 麦塚 知泉院
十四番 伊原 成就院
十五番 蒲生 光明院
十六番 同 清蔵院
掛所 同 地蔵院
同 同 虚空蔵堂
十七番 金右衛門 宝積寺
十八番 善兵衛 西光院
十九番 塚越 地蔵堂
廿番 越巻 虚空蔵堂
廿一番 七左衛門 観照院
廿二番 谷中 観音堂
廿三番 四丁野 光照院
廿四番 越ヶ谷 地蔵堂
廿五番 瓦曾根 照蓮院
廿六番 大相模 大聖寺
掛所 東方 観音寺
廿七番 小林 東福寺
掛所 花田 蓮照院
廿八番 大沢 照光院
廿九番 同 光明院
掛所 同 弘福院
卅番 大房 浄光寺
卅一番 三ノ宮 一乗院
卅二番 荻島 玉泉院
卅三番 末田 金剛院
卅四番 黒谷 普慶院
卅五番 峯 新光寺
卅六番 草加 薬師堂
卅七番 新堀 正源寺
卅八番 保木間 玉蔵院
卅九番 原嶋 真蔵院
四十番 尾ヶ崎 勝軍寺
四十一番 鈎上 円福寺
四十二番 同 保寿院
四十三番 尾ヶ崎 正福寺
四十四番 笹久保 宝蔵寺
四十五番 辻 総持寺
四十六番 下野田 円徳寺
四十七番 大門 大光寺
掛所 行居 花香庵
四十八番 北原 無量寺
四十九番 木曾呂 薬王寺
五十番 道合 大徳寺
五十一番 戸塚 西光院
五十二番 同 東福寺
五十三番 慈林 不動堂
五十四番 柳島 大日堂
五十五番 安行 持宝院
五十六番 石神 真乗院
五十七番 西新井宿 宝蔵寺
五十八番 東新井宿 多宝院
五十九番 浦寺 地蔵院
六十番 鳩ヶ谷 影山堂
六十一番 里村 法福寺
六十二番 辻 真福寺
六十三番 上青木 安薬寺
六十四番 前川 万福寺
六十五番 同 観了坊
六十六番 下青木 竜泉寺
六十七番 東内野 長福寺
六十八番 横曾根 吉祥寺
六十九番 飯塚 最勝院
七十番 川口 善光寺
七十一番 浮間 観音寺
七十二番 二軒在家 地蔵堂
七十三番 川口 錫杖寺
七十四番 十二月田 吉祥寺
七十五番 樋ノ爪 薬林寺
七十六番 三ツ和 実正寺
七十七番 小淵 源永寺
七十八番 江戸袋 東光寺
七十九番 蓮沼 普門寺
八十番 本郷 東養寺
八十一番 榛松 不動院
八十二番 新堀 歓喜院
八十三番 東立野 浄観寺
八十四番 稗田 新竜寺
八十五番 花栗 南光院
八十六番 原 東光寺
八十七番 同 密蔵院
八十八番 慈林 慈林寺
であり、その範囲は現越谷市を中心に、足立区・川口・草加・鳩ヶ谷・浦和の各市などに及んでいるが、今でも蒲生にその世話をする人が居り光明院(新義真言宗)が幹事の寺院という形で行われている。