明治初年の防疫はコレラ・痘瘡対策が重要活動であったが、そのほか赤痢・腸チフス・ジフテリア・発疹チフスを法定伝染病として、その防疫対策が立てられた。とくに痘瘡の防疫については、明治九年天然痘予防規則を定めて強制種痘の制度を設け、生後一年以内一回、以後五~七年の間隔で二回受けることを定めた。しかし、痘瘡の流行は全国的にかなりの規模で起こっている。このうち大流行の年は明治十八~二十年の三年間、二十五~二十七年の三年間、二十九~三十年の両年と三十二年、四十一年がある。
このうち市域の状況は統計書を欠くので明らかにはできないが、県下と南埼玉郡の罹病者数は第108表のとおりで、とくに県下では十八・十九・二十五・二十六・三十・三十二の各年、そのうち南埼玉郡では、十八・二十五・二十七・二十九・三十年に大流行があったことを知ることができる。
年次 | 埼玉県 | (内) 南埼玉郡 |
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人 | 人 | |
明治18 | 352 | 48 |
〃 19 | 764 | 不明 |
〃 20 | 28 | 不明 |
〃 25 | 841 | 135 |
〃 26 | 741 | 15 |
〃 27 | 115 | 56 |
〃 29 | 247 | 63 |
〃 30 | 2,480 | 539 |
〃 32 | 2,845 | 不明 |
〃 41 | 23 | 6 |
「埼玉県統計書」参照
とくに、三十年の痘瘡大流行に際しては内務大臣の指定によって県庁内に臨時検疫部が開設され、郡役所布達で、市域内の全住民に臨時種痘施行が指令され、また各村に伝染病予防委員が設置されて徹底的な防疫活動が開始された。同年八月には桜井村では祭礼・供養・興行・盆踊等が禁止されていることからみて、当然他町村でも同様な措置が講ぜられたと思われる。
この痘瘡以外腸チフスも同二十三年から三十年にかけて南埼玉郡をはじめ、全県下に猛威を振るった(第109表参照)。
年次 | 埼玉県 | (内) 南埼玉郡 |
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人 | 人 | |
明治25 | 1,500 | 76 |
〃 26 | 1,064 | 125 |
〃 27 | 989 | 67 |
〃 29 | 1,220 | 99 |
〃 30 | 792 | 111 |
「埼玉県統計書」参照
また、赤痢も二十九年には全県下で二八三四人、南埼玉郡で二五六人、三十年には全県下で四〇五四人、南埼玉郡で二〇一人の多数に達している。かように当時の衛生状態は悪く、伝染病は猖獗を極めたので、政府ではこれまでの予防規則を根本的に改正し、三十年三月には改めて伝染病予防規則を制定して、これが防疫対策に積極的に乗り出した。
同法によって伝染病に新たにペスト・猩紅熱が加えられ、市町村に伝染病予防委員、府県に検疫委員をおく制度を定め、また、各級機関、医師および個人の責任分担とその費用の負担を明らかにした。とくにこの規則により避病院(隔離病舎)の設置が義務付けられた。避病院の設置については、これより先二十八年に内務省や県の訓令でその設置が勧奨されていたが、市町村では財政上これに応じられなかった。桜井村では三十年の痘瘡大流行の際には大字ごとの寺院を臨時の隔離病舎に充てて患者を収容した。さらに三十一年病舎設置のため村内協議会が設けられたが、民力減耗を理由として隔離病舎設置の延期を郡長に請願していた。なお、蒲生村では組合立隔離病舎の新築落成式が三十三年五月に挙行されており、およそこの頃から各村組合立の隔離病舎が設置されていった。
各種伝染病の流行は、衛生環境の改善や衛生思想の啓蒙にあるとして三十年ごろから衛生幻灯会や講習会が開催され、三十年には桜井村で衛生幻灯会、三十四年には越ヶ谷町天嶽寺で衛生講習会が開かれ、聴衆は二〇〇名に達している。また、伝染病の大流行を契機として各地で土葬が火葬に切り替えられていったが、三十年十月には桜井村から火葬場新設願が郡役所に提出された、しかし火葬場の建設が遅れたため三十一年七月には郡役所から桜井村上間久里共有火葬場の設置を督促されている。