貧困調査

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桜井村では南埼玉郡の通牒にもとづき明治二十二年度の村内貧困者生活状況を調査した。これによると飢餓に瀕するとされた者は日雇八、荷車挽一、職工一、無職一九、農業二七の合計五六家族であった。当時一日当りの賃金は男八銭、女四銭であった。彼らは前年の暴風雨により農作物が被害をうけたために米麦の収穫が減少、また高値になったため、従来にまして生活困窮におちいったといっている。

 さらにこの凶作は日雇賃銀の値下りという事態を惹起し、日雇などの現金収入に依存する生活をも圧迫した。このため生活を維持するため蚊帳や夜具を質入れしたり、売却したりしたが、麦八、九割の食事すらも日に三度とは食すことが不可能であった。しかもその食事も野菜を混入した雑炊というものであり、家計上に費消する金額も男五銭、女四銭小、児二銭が平均であった。

 松方デフレ政策の影響により、明治十八年現在土地をもたず小作、荷車挽、日雇稼で生計を営む者が五〇戸を数えたが、暴風雨などの自然災害をうける度に、その生活困窮はさらに悪化をみせていた。

これら貧困者は桜井村総戸数三八〇余戸の約一五%にあたったが、その後もこの貧困状態は解消されなかった。

 ことに日清・日露の戦役で戦没した遺家族のなかには、働き手を失ってその日暮しの生活を営む者も少なくなかった。たとえば日露戦に従軍して戦病死した桜井村の二名の農民は、いずれも土地を持たない小作人で、残された妻が日雇いなどで家計をしのいでいると報告されている。こうした状況は、桜井村に限らず一般的なものであったろう。なお自作・小作の比率を明治四十四年の桜井村でみると、第110表のごとくであるが、このうち小作が二三二戸、五九・五%を占めており、土地所有の較差が進行していたことが知れる。

第110表 桜井村明治44年自・小作別戸数
自作118(30.3)
自小作30(7.6)
小作232(59.5)
工商10(2.6)
合計390(100)