行倒人

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明治二十年代から三十年代にかけては、政府が掲げた「殖産興業」「富国強兵」等のスローガンに象徴されるごとく、産業振興のため軍備拡張のため企業の優先政策がとられたが、その蔭に労働力として動員された農民や庶民の犠牲が強いられた。ことに『女工哀史』にみられるごとく、紡績企業にかりだされた多くの農村女子は、過労や栄養失調等で倒れ、そのまま身分や生命の保証もなく、企業から締めだされる例が多かった。

 明治三十二年九月七日、桜井村大字上間久里の陸羽街道で(日光街道)、女子の行倒れが発見された。桜井村役場ではこの女子を当村内の医師に託して事情をただしたところ、女子の郷里は宮城県桃生郡前谷地村和淵の或る農家の長女で当年十九歳、同年二月十日静岡県の富士紡績工場に雇われ出稼中脚気症にかかって工場を解雇され、郷里に帰る途中であった。おそらく女子は旅費もなくなったため、陸羽街道を徒歩で郷里に向っていたのであろう。

上間久里の旧日光街道

 桜井村役場では、早速本籍地に女子の引取方、ならびに医養費や看病人手当などの費用弁償を請求したが、実家では、「此度何程なりとも御救護方金を指上申度御座候得共、当分及兼候、私事は目くら(盲)同様、愚妻は病身にて、何様とも今日の暮方にせまり居、猶当年は夏秋の大水にて稲作はくされ、何様とも唯今の処とは申上兼、実は富士紡績へ金二円にて相登らせ候ほどの身の上なれば、御救護方費も此度は指上兼、何卒心外には御座候得ども、当分勘弁奉願上度」とてその生活の困窮を訴え、女子の引取方は延引するばかりであった。そのうち女子の病状も回復し、巡査派出所の掃除などを勤めるようになったが、桜井村役場では翌三十三年二月、村費操換金五四円三八銭の救護費督促令状を実家に送った。その内訳は、医師治療費八回分金二円、薬代金三円六八銭、食費代金一六三日分一日金一五銭の割で計二四円四五銭、看護人料金一六円三〇銭、冬衣一枚金八〇銭、寝具料一日金三銭の割で計四円八九銭、借家代金二円二六銭となっていた。これに対し実家では支払いできなかったので、桜井村では法律にもとづき前谷地村役場に滞納処分の執行を付託した。

 ところが実家は借家で屋敷を所持せず、田畑・山林・原野・船舶などの動・不動産もすべてなく、しかも本人家宅の所持品も生活上欠くことのできない器具で、差押える財産は何もない旨の返書が届いた。このため桜井村役場では宮城県庁にこの旨を報告し、所定の手続きをとっていたが、同年五月四日、役場吏員付添で武里停車場から東武鉄道に乗車、久喜町で一泊、翌五日東北線宮城県小牛田停車場に至る二円四七銭の乗車券と小牛田から自宅までの旅費四〇銭を与え、ここから篤と注意を加えて一人で帰郷させた。翌六日無事に帰宅した女子から、急書状で懇切な礼状が役場宛に届けられたが、その心中は察するに余りあるものがあった。

 いっぽう内務省令第二三号第八条の規程にもとづき、女子の実家に代ってその償還金の支払義務を負った宮城県庁では、本人の帰郷旅費ならびに草履・手拭の給与代金等計四円三七銭は桜井村の厚意的取計いで、この支弁には応じられない旨の回答をよせ、その他看護料などの請求代金を訂正させたりしていたが、結局同年九月十九日、金六七円五八銭の行路病者救護費が桜井村役場に届けられた。

 このほか明治三十二年八月十二日、桜井村大里の陸羽街道で、出稼ぎからの帰郷中、同じく脚気症のため無一文で行倒れとなった長野県高井郡瑞穂村の農民当時三二歳などがあり、出稼者の行倒人は少なくなかったようである。

 また生活に困り、家を捨てて失踪する者も少なくなかったが、桜井村でも明治二十七年十二月現在、その失踪者は一〇人を数えた。なかには同村大泊の菓子小売商のごとく、明治三十五年三月、一家四人夜逃げ同様に失踪しているが、このように一家をあげて失踪する例も珍しくなかった。