貯蓄の奨励

440~441 / 1164ページ

日露戦争の開始により政府は膨大に見込まれる戦費負担のいくらかでも郵便貯金や、国債によって調達しようとし従来に増して勤倹貯蓄を奨励した。開戦直後の明治三十七年二月十日の臨時地方長官会議における首相演説は、国債応募のため国民の勤倹努力を求めている、また大蔵大臣は地方行政機関の経費節減により国民の戦費負担の余力を作りだすことを求め、このため不急不要の事業を中止することを求めている。

 この会議の要旨にもとづき各町村においては時局を認識し、勤倹貯蓄に努めるよう町村民に呼びかけた。これに対し桜井村では児童生徒が約二〇〇〇円を貯金するなど大きな効果をあげていた。また日露戦争の戦病死者二人の遺族が受けた特別賜金一〇五〇円の債券は、郵便局で保管されその証書は村役場の金庫に保管された。そしてこの金を使用するにあたっては、まず村長がその使途を調査した後、郡長の承認をうけて必要な金額が渡されたが、残りは郵便局へ預金させられた。このような特別賜金の扱いは埼玉県ではすべて同じであったが、賜金の運用は貯金に廻され遺家族の自由にはならなかったのである。

 また増林村では明治三十七年に軍需品の太縄を三回にわたって売却したが、この金額は五〇〇〇円であった。同村ではこれを機会に戦時記念貯蓄同盟会を組織し、太縄販売者にその売上の一割を貯蓄させ、これを越ヶ谷貯蓄銀行に預金させた。以後毎月一〇銭以上の貯蓄をおこなうようつとめさせている。蒲生村では三十七年三月大字蒲生の農民一三七人の加入者で奉行地組勤倹貯蓄会、同四十二年四月に三〇人の加入者で下茶屋組勤倹貯蓄会が結成されたが、四十三年三月には奉行地組が一〇〇〇円、下茶屋組が六五〇円の貯金額をあげていた。両会はこの貯金を農事資金に貸付けたり、銀行に預金したりして利殖を図っているが、これは政府が推奨する勤倹のねらいにもっともよく合致するものであったといえよう。

 日露戦争後の地方経営においても勤倹貯蓄はいぜん推奨された。桜井村戸山組で明治四十四年十一月十六日に青年貯蓄会が発会し、教育幻灯会を開催しているのはその一例である。また川柳、出羽、増林、越ヶ谷、大相模等で青年会が組織されたがこの目的は風紀改善と共に勤倹貯蓄の奨励がねらいであった。ちなみに四十三年末の桜井村の預金内容は郵便貯金が一五〇円、中井銀行当座預金が七四円九四銭一厘、鈴木銀行当座預金が一二〇円三三銭、その他を合せ合計三九〇円四九銭一厘であったが、桜井村全戸数平均からいえば一戸あたり一円に満たない金額であった。当時の貯金の零細さがうかがえるものである。