桃の名所越谷

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本書上巻の巻頭の錦絵は、二代目広重(明治二年、四四歳にて没)の名作「武蔵越かや在」である。馥郁(ふくいく)とかおる桃の花樹二本を近景に、菜の花盛りの野面(づら)を見はらして、遠く富士の姿をながめた風景である。幕末期には、すでにこうして江戸近郊の桃の名所として越谷はきこえていた。

 有名な『徳川実紀』の編さん者成島司直(文久二年、八五歳にて没)の「看花三記」(『甲子夜話』所収)は、江戸近郊の花の名所、杉田(現横浜市磯子区)の梅、小金井(現東京都小金井市)の桜、越谷の桃を、文化九年(一八一二)から同十二年にかけて訪れた紀行である。越谷へは文化十一年二月二十六日に江戸の邸を発して、田中(台東区浅草田中町だろう)で友人を誘い、小塚原・千住・島根・竹の塚・草加・蒲生を経て、越谷の「すく」(=宿)をすぎて大沢の橋の手前を左へ折れ、文化人「祐之」(会田七左衛門か)を訪れている。

 祐之のもてなしにより、火桶と瓢(ひさご)とを携え、小舟に乗り、芦の間をわけ行く。このあたり「桃の花ならぬはなし。枝をまじえ、陰(かげ)をならべ、岡も野もただ紅(くれない)の雲の中を往来する如し」と、かれは感嘆している。大房・大林あたりの桃林の景であろう。

 上巻第五章の冒頭(九三五頁)に出ている「十方庵遊歴雑記」の著者釈大浄(津田敬順)もまた越谷の桃花に感嘆を惜しまなかった一人である。かれは文化元年五月と同十四年三月との二回、越谷在の大相模村から築比地(ついひじ)村(現北葛飾郡松伏町)へと歩をのばし、桃花の濃艶に打たれている。かれによると、古利根の河岸を行けば、道すがら田あり畑あり、村あり川あり、「片鄙の風土また一品有て、風景自然に面白し。」しかもこの辺では、田に蓮根とくわいとを多く栽培し、おいしいくわいの煮つけを串ざしにして往来の人びとに売っている。川添いの風光すばらしく、逍遙するのに理想的であり、道ばたの茶店・酒店で憩うこともでき、日暮れれば川べりの民家に一泊することができる。「此の川筋の風色、天然にして兎角の論なし。予が楽しみ遊歴するところただこの事にあり。」とかれは越谷の地を激賞している。

 釈大浄はまた越谷の地の鰻の美味なのと、螢の見事なのにも感動しているが、割愛してさきへ急ごう。かれはまた大林付近の桃林も述べているがこれはあとに廻すことにする。