水辺の行楽地越谷

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同じように古利根・綾瀬・元荒川の川べりを散策する興趣が、明治中期の文化人に述懐されている。当時東京に住んで釣りを趣味とする人びとの間には、既に小合(こあい)溜井(現東京都葛飾区小合)などは喧伝されていたであろう。そこからさらに北上すると、水郷といってよい風趣の地域が連なっている。そうした地域に埼玉県越谷の地があることが注目され始めたのである。

 志賀重昂(昭和二年、六四歳にて没)の著『日本風景論』の末尾に付載された「越ヶ谷附近の春色――東京より北方凡六里半――」もその尤(ゆう)なるものであろう。(本書表紙裏の見返し図版参照。但し国立国会図書館に蔵する同書初版にはなく、第四版明治二十八年五月にあるので、同館の許可を得て図版として掲げることにした。岩波文庫版初版昭和十三年にも収められている。)

 画は図版でごらんのとおり、悠々且つ閑雅な水郷の景の中に、二艘の小舟から漁人が四つ手網を投じているところを描く。この画が中村不折(昭和十八年、七八歳にて没)の描くところであるのはその下の注記で知れる。越谷の地の環境にぞっこん惚れこんだひとの筆致ともいえよう。

 文は、不折か志賀重昂か判明しないけれども、明治中期にこの地を熱愛した人のものとして、こんにちのわれわれも朗誦してさしつかえのない美文である。いわく、(ふりがなは便宜上本書編者が付した)

  筑波山南、一犁(れい)の雨後。春は遍(あまね)し東西南北の村。紅霞二十里、元荒川の一水西北より来り、沖積平原の間を曲折し、水或は絶え或は流れ、沙鴎(さおう)其の最も暖き処に翔泳(しようえい)し、漁人艇を芦芽三寸の辺に停(とど)めて四ツ手網を曳く。獲る所は何ぞ、〓魚〓魚(フナタナゴ)、モロコ、ハヘ。

  両岸の楊柳、淡くして煙の如し。桃花其間より映発し、真個に一幅の錦繍(きんしゆう)画図。花外の茅屋(ぼうおく)数〓(えん)、就(つ)きて麦飯、筍蕨を烹さしむべし。一碗の渋茶を囁(すす)るも亦た佳。

  嗚呼何(な)にが故ぞ名奔利走の間(かん)に周旋する。営々役々、以て人生を了(おわ)らんとするか。此の天地の大観至楽を如何せんとする。

  (文中難解な字についてはじゅうぶんには解けないが、一犁の犁はここでは黎と同じ用いかたで、黎は黎明の黎で「頃(ころ)」の意があるから、一黎の雨とは、いっときはげしく降る時の聚雨のことか。沙鴎は、砂浜にいるかもめということで、水辺にあそぶ水鳥に自然の営みを託す用法か。杜甫に「瓢瓢何所似 天地一沙鴎」という詩がある。)

水郷越谷に逍遙すれば人生を達観することができるというのだから、こうなると越谷の地も哲学的背景をもつことになる。それはそれとして、この文の筆者も、かつての釈大浄と同じように、この地において美味求真をしているのがかえってほほえましい。

 魚がとれるだけではない。バン・カモ・キジ・クイナなど、群をなして飛来し、一時は狩猟客で賑わった(本章第一節御猟場の項参照)のであるから、越谷がいかに恵まれた行楽地であったかが察せられよう。