大房の古梅園

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前に述べた釈大浄の越谷紀行のはじめの部分は、大林方面を中心としている。しかし桃花の季節はずれの五月であった。かれによると、大林の桃園は、越ヶ谷宿の西北六町弱(約六〇〇米)、街道から左に一町入ったところで、川筋に沿って南北一五町(約一・七粁)幅三、四町(約四〇〇米弱)にわたって、見渡す限りの桃の林である。樹の下には麦や菜類をしつけてあり、川に沿って西へ行くと珍しい形の橋がある。その橋のさまは、三段に区切られており、こちら岸と向う岸とは土橋で、両端とも四、五間ずつ川岸から張り出させ、真中の三、四間の部分は厚い板を数枚ならべてある。洪水になった場合、まん中の板をとりのけて水勢を流すようにしてあるのである。橋のたもとに茶みせがあって、往来のものはここで休む。ここからの、川の悠々と屈曲しているながめはいうにいわれぬ風情である云々(うんぬん)。

 大浄がうっとりと眺めたのは、大林から元荒川に沿い溯って行ったあたりで、この辺まで桃林が続いていたことがわかる。

 くだって、明治三年三月二十日、文人成島柳北(幕末に外国奉行、会計副総裁など勤めたが維新に引退。明治十七年、四十八歳にて没)は、古河藩主の招待を受け古河に赴く途中、越谷を通過し、街道を歩きながら左に桃林を眺めている。その紀行に「この駅尽くる処、桃林あり。幾万株あるを知らず。都人称するところ、越谷桃源とはこれなり」(「常総遊記」、原漢文)とあるのによって、いかに桃林が有名だったかを知らされる。

 さらにくだって明治四十五年三月二十日の『埼玉新報』は、「越ヶ谷と藤塚(現春日部市)なる埼玉園芸会社の桃林がソロ/\笑ひ初むるにより、本月二十四日より来月十四日迄越ヶ谷及武里の二駅共通の割引切符を発売し、遊覧者の便を図る由なれば杖を曳くも一興なるべし」と報じており、東武鉄道が東京から観桃客を誘引しているさまを告げている。

 この大林の桃林が南にのびたあたり、大房の浄光寺境内に接して、明治三十年代に梅園が設けられ、観梅の客を吸引した。これを古梅園と号した。同じく『埼玉新報』の明治三十五年三月から四月にかけて五号連続で、江面庵富宝という筆名で「探梅紀行」を寄せた人がある。それによると、元来この梅園は、浄光寺の境内の梅林に続けて、あらた三反歩の麦畑を潰して梅を植樹したもので、若木のため花がろくに揃わなかったという。庭園中に、「天の浮橋」と名付けたものがあり、それは竜蛇がとぐろを巻いているような老木の下に小さい池を掘ったものであった。(この筆者は粕壁かそれ以北の人で、こうした人工的な美観よりも、自然のままの姿の方がずっと好ましいとて、帰途武里駅まで歩く途中に袋山村の梅林を見出して喜んでいる。)

 古梅園はその後しだいに美観を増したことであろう。年代は大正五年にくだるが、文学者大町桂月(大正十四年、五七歳にて没)が古梅園を訪れている(「越ヶ谷の半日」〈桂月全集第二巻所収〉)。「浅草駅より東武線の汽車に乗り、五十分かゝりて越ヶ谷駅に下る。平日は下等の賃金片路二十七銭なるが、梅の為に、大割引となりて、往復の賃金三十銭也。」

大町桂月肖像画(国民新聞より)

 越ヶ谷停車場(今の北越谷駅)より三町(約三〇〇米)で(駅西側に臨時出口を設けてあった)古梅園に達する。垣根が少しあるだけで浄光寺に接し、田に連なり畑に連なる。「天の浮橋とて、老木の一幹は立ち、他の一幹は横になりて、瓢箪池の中央に自然の橋を為し、彼方にて起つ。可成り大なる老木もありて、花は今を盛りと咲き満ちたり。」

 梅また梅、庭園外にずっと伸びているので、「その尽くる所を知らず。」中にも、農家にあって十数代を経たという〝雲竜〟、枝を四方八方に延ばし「恰も孔雀の尾を拡げたるが如」き〝日の出梅〟などことにすばらしい。案内人が、この村の梅を全部見るには一日かかります、と言ったという。桂月が試みに、梅と桃と、いずれが利益が多いかと尋ねたところ、梅、との答であった。