久伊豆神社の藤

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大町桂月は古梅園を訪れた後、一(ひと)汽車おくらせ、人力車を走らせて大相模不動と久伊豆神社にも詣っている。後者の印象は簡明で、「松の並木長く、池畔の藤棚偉大也」とある。

 久伊豆神社の境内には藤の古木があり、毎年五月ともなれば、三〇〇坪にわたって優雅な花房を満垂させる。しかもその半分は池の上に拡がっているので、その池水に照り映える風趣はたとえようもない。

 この藤は天保八年(一八三七)、越ヶ谷の川鍋国蔵(明治三十二年、東京下谷で七七歳にて没)が、下総国流山から、樹齢五〇年のものを舟で運んできて移植したものと伝えている。池が境内に、日光二荒山の湖にたどって、掘られたのもほぼ文政、天保期といわれているから、国蔵は池に風致を添えるために移植したのであろう。この国蔵は、棕櫚箒を造って売る職人であったが、祭や縁日にはすしを売ったので、「すし大」とも呼ばれた。この人、藤の花盛りにはすしを人びとに売りながら、この藤は、地味のせいか育ちが早い、などと語っていたという。

 この藤も都会人の観光と結びついたのは案外おそく、『埼玉新報』明治四十四年四月二十六日号によると、「郷社久伊豆神社の藤花は此数年来人口に膾炙しそめし者(もの)」とあるから、これも古梅園などと同じく、鉄道開通による観光客吸引と関係深いのであろう。

久伊豆神社の藤(「越ヶ谷案内」より)