大町桂月が人力車を走らせて参詣したという大相模不動も明治期越谷の名所の一つであった。この不動尊は本書上巻原始古代編第五章、中世編第三章(二九二頁・三一〇頁)にも述べたように、古くから有力な霊仏で、別当大聖寺は江戸時代を通じて朱印六〇石を賜っていた。維新後は祈祷に重きを置く寺院は一旦の衰退を余儀なくされたが、やがて大聖寺はあざやかな立直りを見せ、明治三十年代には旧に倍する繁盛をきたすようになった。『東武新報』明治三十七年二月十日号は、そうした大聖寺境内の繁盛ぶりを活写している。
「山内には桜をあまた植え、梅も少からず。池には鯉・亀が泳ぎ、鶯の名所であるとともに螢も群をなすほどである。越ヶ谷停車場(現北越谷駅)からは二十余丁だが乗合馬車の便があり、蒲生停車場からは十余丁、近頃道路を修繕したから腕車(=人力車)自在に往復する」と。
また近傍の町村各学校は毎年春秋二期の大運動会をこの境内で挙行する。昔からここの本尊の御詠歌がなかったのを、三十五年九月住持高岡僧正自ら、
朝日かげ仏の誓ひしるべして
名だかき寺の松にかゞやく
と作歌された。そのほか十三仏の御詠歌、光明真言の御詠歌も頒布しているので、講の時など気分大いに高揚すると。会式(えしき)の最大のものは二月二十八日と九月四日である。二月の時は遠近四方から新婚の花嫁が、おのおの力限りの晴着を競って参拝する。(大正五年の大町桂月参詣の際も、「恰も縁日にて、近郷の男女老若群集して、広き境内を埋む。新婚の女なるべし、若き女の晴衣着飾りて、老女に伴はるゝものを、二、三人見受く。いづれも五枚襲(かさ)ねなり、東京には見ざる所なりとて、山神(注、桂月の妻をさす)目をまるくして見入る」とあり。)この日護摩を希望する者は数百人を教える。
九月の時は、また十万以上の参詣人が集まる。有名な「梨市」で、市川・下総中山から産する梨の商人が多数来ってさかんに売る。ここでの捌(さば)け方によって東京市内の価格に影響するという。山内山外に諸商人がざっと三百出る。春の会式よりは厄除祈念になるとて二倍以上の人出である。
このほか正月三ヵ日・節分・涅槃会・彼岸・灌仏会・四月十五日本尊開扉護摩執行・八月十五日大施餓鬼・三月二十一日大師御影供・五月八日大般若転読・毎月廿七日普門品講・廿八日護摩執行など、一年中に賑う日がしばしばある。冬至には夕方から末寺からも皆参して星供を行う。
以上大相模不動の賑いは、当然宗教儀礼が中心となっているものだが、江戸時代の野島地蔵尊の開帳が出店・見世物で賑わった(本書上巻一二一六頁)ごとく、宗教現象であると同時に行楽的要素がきわめて濃厚である。ここに明治期民衆生活の偽らざる一側面を見ることができよう。