明治末期より大正初期にかけて、日本の資本主義の確立により農村は変貌しつつあった。明治三十年代における産業革命の進行と農村における地主制の確立は、初期的な労働運動や小作争議などの農民運動の基盤をつくり出すとともに、社会主義思想の浸透を容易にしていった。くわえて日清・日露とつづく戦争と軍備の拡張は、地租増徴となり、地方財政の膨張は農村の生活を圧迫していった。
明治二十二年四月の新町村制度の実施後、地方道路の修築や義務教育の年限延長による校舎増築、火葬場・病院設置などにより、地方財政はいちじるしく膨張した。このため府県税・町村税の増加速度は国税の増加速度を上まわり、さらに協議会・農会費等の諸負担も増加の一途をたどり、商品経済の浸透とともに村びとの窮乏をおしすすめた。
このような村々の状況に対し、地域ごとに風俗矯正会や勤倹貯蓄組合を組織させたり、また基本財産を造成することにより打開しようとしていた。しかし日露戦争後はこれを国民運動として全国的にとりあげねばならないところまで達していたのである。明治三十七年、内務省地方局は町村のめざす方向について「当局者の奮励、公共心の発揮、市町村是の実践、勤倹力行の勧奨、良風善行の奨励」などを掲げて、各町村の努力を促している。明治四十一年には国民教化を目的とする戊申詔書も発布された。つまり、上からの行政による町村自治の振興に呼応して村びとの自発的な愛村心を振い起こさせ、町村ぐるみの運動を通じて下からも自治振興の裏うちを与えさせようとしたものであった。この運動を地方改良運動という。