改良事業の実施

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明治三十九年、南埼玉郡では郡下各町村に対し「時局ニ於ケル地方経営」の調査報告を命じている。日露戦争後の農村経営の実態を把握するためである。だが地方改良に関しては四十三年十一月に内務省の地方改良講習会の講演集が配布されている程度であり、具体的には大正期にはいって努力され、五、六年頃にようやく県や郡でその努力も集約されるようになった。

 大正五年南埼玉郡では、郡長を会長とする地方改良調査会が組織された。このとき改良の方針は、自治の興隆を図ること、民力の充実を図ること、教育の普及を図ること、衛生思想の向上を図ること、風俗の改良を図ること、の五項の目標を掲げそれぞれ細かく実施内容を示している。たとえば自治の興隆のためには部落講演会を開いて自治思想を普及させ、町村吏員を養成しかつ吏員を優遇すること、基本財産を増殖し納税組合を設置して納税成績をよくすることなどが指示された。大正六年二月には郡主催の地方改良講習会が開かれ、第一回の講習終了証書の授与式が、同月二十八日に岩槻小学校で行われている。このとき桜井村の長野新太郎、新方村の八木橋仁重郎、増林村の江原芳太郎、大袋村の瀬尾哲太郎などが終了証書を授与された。

 この頃より各村では地方改良のための団体が組織されるが、蒲生村ではすでに明治四十三年に勤倹貯蓄組合が設立され、また大正四年八月には蒲生村互助組合が設立されている。後者の組織は俗に五人組と称し、村内を一一組に分けて各組に組長、副組長、伍長、副伍長をおき、これらを組合長が統括することになっている。この目的は「村治上ノ補助機関トシテ布告、通達等ノ周知、其他納税、教育、衛生、風俗等、上下恊戮振作更張ノ機関」(大正五年「蒲生会議録」)とすることにあったが、そのかたわら生産米検査の助成、勧業統計の調査などにこれを利用した。大正七年には地方改良実施情況の調査を行い、各村よりその様子を報告させている。桜井村では基本財産の蓄積、部落有財産の統一、村勢の周知徹底、二毛作の拡大、衛生思想の向上、それに風俗改良などについて上申している(大正八年「庶務部」)。こうしてようやく軌道に乗ろうとしていた地方改良運動は、その後の民力涵養運動にひきつがれてゆくのである。