このような過重な町村税は国税・府県税のほかに各人に賦課されたので、村びとにとっては大きな負担となった。このため明治四十二年より恒常的な滞納が増加したため各村ごとに徴収結果報告書の提出が義務づけられた。滞納は国税・県税より町村税に著しかったらしく、各町村の理事者はこの対策にいずれも苦慮している。
たとえば蒲生村では大正二年度の事務報告で「国県税ノ納税成績ハ稍々良好ナルモ、村税ニ至リテハ近年緊要事業ノ勃興ニ伴ヒ、村費ノ増加殊ニ著シキヲ以テ、往々納税困難ヲ叫ブモノアルヲ聞知スレドモ、本村ノ如キハ四隣町村ニ比シ、賦課率過重ナラザルハ勿論、本郡南部諸町村中ニ於テハ寧ロ寡少ナルノ部ニ属セリ、然ルニ逐年村税未納者ノ増加ヲ来シ(中略)未納整理ハ役場事務中ノ最難事」(大正三年「議事部書類綴」)であるとうったえている。さらに大正三年度も同様な報告をした蒲生村は、四年度には「村税モ亦逐次滞納者減退」(越谷市史(五)四八〇頁)の傾向を示しつつあることを報告している。大正七、八年は不景気で再び税納は停滞するが、その後はややもちなおしている。
当時の納税滞納状況をみると、蒲生村の場合大正元年現在の村税未納額および未納者数は第2表(イ)、大正二年現在は同表(ロ)、大正四年現在で同表(ハ)のごとくである。いずれも「未納ハ戸別割最モ多数」である。周辺町村に比較して滞納者の少ない蒲生村にして、大正初年には毎年一〇〇人以上の滞納者が累積していたのである。桜井村の場合、明治四十二年には滞納者一二五人、四十三年には大洪水の被害とも重なって一七〇人に達している。これは全村納税戸数の四三%にあたっており、一戸平均の滞納額は一円二七銭であった。また増林村では明治四十三年には二九六人の滞納者をみているが、郡内では大正元年に「甚シキニ在リテハ三千円ヲ超ユル」未納額を出した村さえあったという。
大正元年現在 (イ) | 大正2年現在 (ロ) | 大正4年現在 (ハ) | ||||||
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明治41 | 21円06銭 | 58人 | 1円82銭 | 19円63銭 | 5人 | 38人 | ||
42 | 2円10銭 | 6人 | ||||||
43 | 15円71銭 | 27人 | ||||||
44 | 6円50銭 | 25人 | 4円89銭 | 16人 | 4円62銭 | 28人 | ||
大正元 | 24円09銭 | 67人 | 3円48銭 | 9人 | 3円28銭 | 16 | ||
2 | 12円48銭 | 56人 | 3円96銭 | 17 | ||||
3 | 17円51銭 | 57 | ||||||
4 | 9円26銭 | 22 | ||||||
合計 | 51円65銭 | 150人 | 40円48銭 | 119人 | 38円63銭 | 140人 |
大正2年「議事ニ関スル書類綴」
大正3年「議事部書類綴」