このような滞納の増大は、国政の財源を農村に求めた増徴政策の強化とともに、本来、国家で負担する義務教育費や土木費などの捻出を町村に肩がわりさせていたことに起因している。それだけに政府の方針としては町村財政の健全化を確立するための運動を推進させる必要があったのである。
地方改良運動における自治の興隆とは、まさに納税思想を広め納税組合を設置して納税を安定させることであった。そのためにも勤倹貯蓄、奢侈をつつしむ風俗の改良などが強く要請されたが、南埼玉郡ではさらに各町村に滞納整理の方法を具申させていた。それに対し蒲生村では、「時々大字使丁ヲシテ督促セシメ、又滞納者ヲ召喚シ、或ハ吏員ヲシテ各戸ニ直接出張セシメ、納税ノ重大ナル所以ヲ説示シ、各年度ト共ニ納入セシメ」(大正二年「議事ニ関スル書類綴」)ようと図っている。このほか大正二年頃には荻島村・川柳村では教育機関を利用したり、桜井村では講話会を開いて納税思想の浸透をはかっている。また増林村や大相模村では出張徴収を行なっており、大相模村・川柳村では産業組合を利用した納税組合を設置している。桜井村・大袋村・荻島村では区長または伍長や組長が税の集金に各戸をまわっている。こうして各村とも納税袋や納税期限表を各戸に配布し、期限内の納税遵守を呼びかけていた(越谷市史(五)八八一頁)。このほか巡査による説諭も行われたし、小学校教育に納税教育をとり入れるよう指導されたりした。