知事失言問題

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このように町村の現状より不均一課税の方針を主張し、町村自治の確認を求める越ヶ谷町と、法的規制を重視し電燈会社への課税が工業政策上会社設立の阻害要因とみる県や郡役所側とは、相入れない対立関係にあった。この対立における内務大臣の裁決は明らかでないが、越ヶ谷町が内務省へ再提訴しているさなか、次のような知事失言問題が発生した。

 大正三年十一月越ヶ谷町尋常小学校講堂で開かれた南埼玉郡教育会の総会に、水谷麻之助郡長とともに出席した昌谷彰知事は、その演説で南埼玉郡の状況にふれ、「同郡は従来郡長の排斥地なりと称せらる。現に郡長の弾劾運動起りつゝあるを聞くも、斯の如きは先帝陛下の勅語に現はれたる上下心を一にしての聖旨に戻るもの」(埼玉日日新聞・大正三年十一月三日付)であるとこれを批判した。これに憤激した越ヶ谷町民同志会員(四六七頁参照)は昼休みに、郡長弾劾の運動と教育とはどのような関係があるのか、「上下心を一にしてというのは無能不埓の郡長でもこれに屈服せよとの精神なりや」(同前)とて、知事に抗議のための面会を申し入れたが、ことわられた。この日の出席者の間では、教育会総会において自治行政上の批判をするのは、かえって教育の精神に反する失言であるという声が高まった。

 その後知事はこの問題で県庁を訪れた新聞記者に対し、「同郡従来の郡長排斥史に就て立言したるのみ」で、町民同志会の郡長弾劾運動を指したものではないと弁明したが、越ヶ谷町における内務省への再訴願がよほどこたえていたのであろう。なお郡長水谷麻之助はこの一件の不始末によるものか、大正四年一月に依願免職となっている。