大塚町長の批判

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明治四十一年以来越ヶ谷町政を担当し、訴願事件にも先頭で指導していた町長大塚善兵衛は、大正三年十二月十六日肋膜炎で没した。この直後に行われた町長選挙に立候補した前町長の子善太郎(当時埼玉日日新聞記者)は、新郡長の仲介で対立候補の小泉市右衛門に町長を譲り、みずからは助役となったが、四年七月小泉町長の辞職にともない、町長代理として町政を担当、やがて町長に推された。

 越ヶ谷町長となった大塚善太郎は、大正六年一月、埼玉新聞に「地方改良論」を投稿して、訴願事件に象徴される地方改良運動を次のごとく批判した。

 地方改良は近年の流行語になったが、その基本が理解されていない。官僚は改良について「人民の方の都合を考へないで自分の方の都合ばかりを考へて居る」(越谷市史(五)八九四頁)。たとえば町村民が疲弊しても町村の基本財産さえ造成されれよばいとして、新任知事などは埼玉県は基本財産が少ないなどと発言するが、これは無責任きわまりない。町村民の精神的物質的状態の悪さを知るのが改良するための先決問題であるはずである。鎌倉南埼玉郡長は模範郡長といわれるが、今の世に模範的人物といわれるには長官ないし上級者の言いなりになる者でなければならぬ。郡長は地方改良調査会を設けたが、その趣意書は実現不可能な立派な作文にすぎない。

 この郡長が内務省の方針どおり自治不振の原因を、町村の基本財産の少なさ、納税成績の不良、大字根性の残存の三点に求めているが、偏狭もはなはだしい。むしろ不振の原因は勤倹意識の後退、共同団結力のなさ、公共心とくに愛国心の不足にある。これを基本として自治の不振は、当時の町村区域が広すぎること、町村合併が用悪水の利害に一致しないこと、国政の委任事務が多すぎること、役場事務が監督官庁の統制で繁雑すぎること、自治制に関する知識を涵養する教育をしていないこと、人材を優遇しないため地方行政を担当する優秀な人材をのがしていること等に起因するのである。そして監督官庁は「町村の個性を発揮し得る様にする」(越谷市史(五)九〇〇頁)ことこそ、自治振興の根本である、と述べている。

 またその対策としては、委任事務を少なくすること、郡役所を廃止すること、有給吏員を優遇すること、監督方針を一変すること、などを主張していた。まさに当面する問題点をついていたのである。