米価の変動

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以上みてきたように町村税滞納整理は地方改良運動における主要な問題であった。大正三年十二月蒲生村長は郡役所への上申書で、村税滞納整理に努力するも「如何セン、近来稀有ノ不景気ニテ本村ノ如キハ殊ニ無資産ノ細民全戸数ノ五分以上ヲ占メ、米価ノ暴落ハ曩ニ使用セシ肥料代金ノ支払ヲ償フニ足ラズ、加フルニ彼等生計費ノ要素タル藁細工類の暴落ハ日常ノ食費ヲ支フルコト能ハズ、必竟(ひつきょう)ニ節食スルノ止ムナキ現況ニ有之、如何ニ焦慮スルモ目下ノ状態ハ到底整理ノ見込相立チ申サズ」(大正二年「議事ニ関スル書類綴」)と回答している。凶作に加えて資本主義政策のもたらす景気の変動がまた納税成績に影響を与えていたのである。

 当時の景気変動を作柄と関連してみれば第7表のようになる。史料には、米価は一円につき七升から八升というごとく記されている。この中間をもって四斗俵に換算したものが、明治四十三年より大正五年までの一俵当りの価格である。これを年間平均の東京深川相場と比較してみれば、この間に相当の価格上の開きがあることがわかる。越谷地域の米価は生産者米価であり、深川相場は卸売米価であるためと思われる。年次別の米価の変化をみると、越谷地方の米価と深川相場のそれは、ほぼ連動しているようにみられる。

第7表 越谷地方の景気変動と深川相場
作柄景気米価東京深川相場
(1円につき)(1俵)(1俵)
明治43(1910)大洪水,浸水被害,収穫皆無7升~8升5円33銭
明治44(1911)気候良好5升8円
大正元(1912)平年作5升2合~6升7円14銭20円96銭
大正3(1914)平年作相場暴落,不景気5升6.7合~7升6円35銭16円13銭
大正5(1916)1割減収,糯米は平年作相場漸次沸騰4升7.8合~7升6円78銭13円26銭
大正7(1918)暴風雨被害諸物価高騰(乙米1俵)32円75銭
18円50銭
大正8(1919)米麦作良好,豊作諸物価高騰( 〃 )45円99銭
21円~23円
大正9(1920)米麦作良好,豊作諸物価下落( 〃 )43円46銭
10円50銭~23円

「産社祭礼帳」越谷市史(六)231頁

 明治四十三年に下落した米価は、四十四年には上昇し、大正元年よりやや下降気味であったが、さらに三年には全国的な不景気で米価は下落した。同五年には越谷地域でもち直した米価も、深川では、最低の一三円余に落ちこんでいる。これが七年には生産者・卸売とも倍以上の高値となったが、八年にかけては「暴騰」状態となった。すなわち、大正六年の越谷地域の米価は不明ながら、深川相場は一九円八四銭であった。これが同七年には三二円余と暴騰している。また越谷地域の米価七円弱から一拠に一八円余への高騰は、地域の生活に大きな影響を与えずにはおかなかったが、さらに米の消費地域においては米騒動が発生するに至った。