農村部におけるこのような状況も、市街地においてはまた異なったあらわれかたをする。
大正七年七月より九月にかけて全国的に発生した米騒動は、米価騰貴を契機とする民衆の暴動であった。シベリア出兵を目前にした米商人・地主らの投機が米価騰貴をあおり、米を購入する賃銀労働者の暴動に発展したといわれている。七月二十三日富山県魚津町の漁民の妻女たちによる県外移出米の積みこみ拒否に端を発した米騒動は、新聞に報道されると八月中旬には全国の主要都市で米価引き下げ、米商人襲撃などが行われ、八月下旬より九月にかけて地方都市・農村にも波及していった。
埼玉県でも八月には物価騰貴が起った。その際農家にはあまり苦痛はなかったとはいえ、一般社会の細民や下級俸給生活者が生活難に陥ったといわれている。そして米価騰貴で八月十日には大里郡に労働争議が発生し、県内各町では救済対策もとられるようになった。大宮・浦和・川越・本庄町では白米の廉売をはじめている。
南埼玉郡でも八月、郡内各町の町長会議で外米廉売を決定し、各町村の有志者より寄附金を集めて廉売の資金とすること、廉売は町村役場で行うこと、廉売価格は一升につき一五銭とすること、救済体制をつくることなどを確認している(越谷市史(五))。また当時の報告によれば、桜井村の場合、総戸口四〇〇戸・二四八二人のうち、七四戸・五二〇人が救済すべき細民であるとしている。
このとき本県にわり当てられた皇室からの下賜金は六万四〇〇〇円で、南埼玉郡は六八三九円余、そのうち桜井村は一二二円三二銭であった。下賜金は人口に比例して配分されるもので、各町村は現住戸数の一〇分の一以内で下賜金を交付すべき細民を査定し、細民をさらに普通細民と特別困窮者にわけ、特別困窮者には普通細民の二倍を交付するのを標準とした。桜井村では八月二十七日に小学校に八三戸の細民を召集して伝達式を行なった。その内訳は細民三九戸で最高八人家族で二円六〇銭、最低一人家族で四〇銭、また極窮民は四四戸で最高八人家族で三円九〇銭、最低一人家族で六〇銭となっている。したがって同村の救済は先に報告した戸数よりも多くし、対象者を全戸数の二割以上に及ぼす方法をとったのである(桜井村庶務部大正七年)。
この他各町村では地主層を中心とする富裕者からの寄附金を募り、これで細民を救済しているが、川柳村では大字ごとにこれを実施している。大字南青柳では最高四〇円から最低一円で三六名の地主から計三二四円を集め、これを七円、五円、四円、三円の段階をつけて六五名の小作人に給与している。また、大字麦塚では玄米二一俵五升(現金に換算して三四八円五六銭)を二五名の地主から集め、これを二斗一升から三斗一升六合にいたる差をつけて三七名に現物給与している(川柳村埼玉共済会書類)。また、市街地の越ヶ谷町では篤志者が二五〇〇円、大沢町では篤志者が二〇〇円を貧民救済の目的で義捐金として拠出し、外米の廉売を行なっていた(県警察資料)。
越谷地方は純農村地帯であり米麦生産地であるために、暴動にまで発展しなかったようであるが、すでに米麦購入者も多く、賃銀との格差が生ずることによって不穏化する要素は社会的にはらんでいたのであった。