関東大震災

475~477 / 1164ページ

大正十二年九月一日午前十一時五十八分。ゴーッという不気味なにぶい音が地をはうように聞えたかと思う間もなく、強烈な上下動が越谷の村々を襲った。のちに判明するが、震度七・九~八・二の相模湾北西隅の海底に震源地をもつ安政二年以来の大地震であった。このとき関東一府六県に大被害をもたらす関東大震災が発生したのである。

 激震地は京浜・三浦半島・湘南地方・房総南部で、これに隣接する県内の古利根川・元荒川・庄内古川・荒川流域の東南部地帯に大きな被害をもたらした。埼玉県は京浜地域ほどではないにしても、それでも家屋の全半壊戸数は七万戸余、死者二一七人、負傷者五一七名に達している。うちわけをみると、郡別では死者は北足立郡一〇九人に対し、南埼玉郡八〇名と二番目に多く、建物の全半壊も北足立郡二〇三八戸についで南埼玉は一三一四戸と多く、本郡は北足立についで被害の多い郡であった。

 市域村々の被害状況をみると第9表、第10表のようになっている。市域全体の被害戸数は一六六六戸、うち全壊戸数八七一戸、半壊戸数四六二戸である。被害人数は八五人、うち即死一九名、負傷者六六名である。戸数・人数ともにもっとも被害の多いのは出羽村、ついで大相模村、増林村などであった。郡内では粕壁町がもっとも被害が多く、ついで出羽村、武里村、新和村、豊春村、川通村の順となっており、大相模村は七番目であった(大相模村の場合、別の史料では全壊九二戸、半壊一四戸、死者五人、負傷六人で郡下六位の被害度であるといわれている)。

第9表 市域村々の震災状況(家屋倒壊)
区別 住家 倉庫・物置 寺社・学校・役場 その他 合計
町村
桜井 68 35 23 7 2 1 5 98 42 1
新方 13 14 30 15 3 13 28 17 43
大袋 44 22 20 15 7 5 1 5 10 15 65 39 40
荻島 33 15 4 15 11 3 2 21 5 69 33 7
出羽 151 41 45 86 33 37 10 1 36 8 9 283 82 92
川柳 21 3 2 11 2 3 5 4 37 9 5
蒲生 13 9 13 3 4 1 3 4 20 9 21
大相模 59 15 8 54 3 8 3 4 125 21 8
増林 36 37 25 24 38 32 35 41 52 95 116 109
越ヶ谷 13 46 8 39 3 2 23 88
大沢 19 4 7 8 2 1 28 6 7
470 241 154 262 145 97 22 8 2 117 68 80 871 462 333

全は全壊,半は半壊,大は大破使用不能 越谷市史(五)862頁

第10表 市域村々の震災状況(即死・負傷)
区別 15歳未満 15歳以上 合計
町村 即死 負傷 即死 負傷 即死 負傷
桜井
新方
大袋 1 2 1 2
荻島 1 2 3
出羽 1 2 6 22 7 24
川柳 1 1 3 1 4
蒲生 1 1 4 3 5 4
大相模 2 1 3 24 5 25
増林 4 4
越ヶ谷
大沢
合計 4 6 15 60 19 66

越谷市史(五)866頁

 明けて二日には朝鮮人襲来の虚報が乱れとぶなかで、京浜方面からの罹災者が縁者をたよって避難してきた。この日、県内では川口・蕨・草加町に救護所をつくり、焚き出しを行う体制をとり、四日には浦和・大宮・熊谷などにも増設された。被害の激甚であった出羽村にも約一ヵ月間に東京より三〇〇名以上が流入し、被害と人口の急増で深刻な食糧不足におちいっている。二日より十六日にいたる南埼玉郡の救護人員は二万三六七〇人に達した。村々では一日の夜より二日にかけて自警団が組織され村内の警戒にあたったが、三日に関東戒厳司令官告諭が発せられ、四日に戒厳令が埼玉県にも拡張されると、これにともなって自警団は解除され、以後火の番のみ行われた。四日には郡長、警察署長名で朝鮮人襲来の流言が否定され、戒厳令の通達ともども五日と六日はその徹底方がはかられている。七~八日より被害状況調査や救済がようやく軌道に乗り出している。不通となった東武線も二日に粕壁―館林間が開通し、六日より西新井―伊勢崎間が開通し九日には全線開通となった。