市域村々のうちもっとも被害の大きかった出羽村の場合を、当時の役場吏員の記録(出羽村『震災関係書類』)でみると次のごとく記されている。
九月一日俄然大震災ニ襲ハレ、吏員一同ハ転ブガ如ク一同前庭ヘ避難シタル処、四方ニ塵煙上リ倒壊家屋忽チニ算ナク、阿鼻叫喚ノ声四方ニ起リタレバ、直ニ重要書類ヲ倉庫ニ蔵メ、全員各方面に活動人命ノ救助ニ向ヒタリ、而モ救ヲ呼ブモノノ多クハ屋根或ハ梁下等ニ敷カレテ、二、三ノ人員ニテハ如何トモ施ス術ナカリキ、左レバ直ニ急ヲ報ジ消防組員ヲ召集シ、在郷軍人団ノ応援ヲ求メテ、夫レ/\各部処ニ於テ夕刻迄ニ全部引出スヲ得タルガ、其間絶ヘズ余震来リ困難ノ状ハ言語ニ尽サレズ、漸クニシテ救ハレタルモノ七十七名、遂ニ時間ヲ失シテ死ニ至リタルモノ及即死シタルモノ井出助役ノ母ヲ初メトシテ八名ニ達シ、重傷者亦二十三名ノ多キヲ算シ、実ニ倒壊家屋ニ至リテハ全村戸数ノ二分ノ一強ニ当リ、全潰百五十一戸、半潰八十六戸、倒壊棟数四百五十七ノ数字ハ、当時ノ惨状ヲ雄弁ニ物語ルモノタルベシ
この罹災状況を表にすると第11表のようになる。表示の数値は震災の途中の報告に基づくものであるためか、実際より少なめとなっているが、ほぼ出羽村内の概況を知ることはできよう。各大字に被害が出ているが、なかでも七左衛門・大間野・越巻地区に甚大な被害を出している。かつての湖沼地の新田埋立地域で、地盤が弱かった地域である。
大字名 | 戸数 | 全壊 | 半壊 | 死亡 | 負傷 | 行方不明 | 避難民 |
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戸 | 戸 | 戸 | |||||
大間野 | 76 | 76(36) | 29(15) | 1 | 11 | 20 | |
七左衛門 | 129 | 95(45) | 54(22) | 4 | 6 | 61 | |
越巻 | 45 | 48(26) | 26(11) | 1 | 3 | 1 | 29 |
谷中 | 51 | 34(19) | 37(22) | 4 | 1 | 28 | |
神明下 | 66 | 10(5) | 11(6) | 1 | 28 | ||
四丁野 | 77 | 20(5) | 17(5) | 51 | |||
合計 | 444 | 283(136) | 174(81) | 7 | 24 | 2 | 217 |
( )内は住家 越谷市史(五)859頁
出羽村では早速、死傷者の手当、病人の処置などが行われた。家屋の倒壊や半壊で灯火なき夜をむかえたが、庭に穴を堀って飯を焚いて急場をしのいだ。だが余震はなお続き室内での就寝ができず、南の空に東京の延焼をながめつつ不安な一夜をすごした。翌二日、朝鮮人来襲の虚報に驚かされて在郷軍人団および消防組員を中心とする自警団が組織され警備にあたった。この頃から東京の避難民が村々へ押しよせており、食糧や水を求めたためついに白米の欠乏におちいっている。電力も途絶えたため玄米あるも精白できず、ために石油発動機を借りて四丁野の大塚精米所、大間野の小林精米所で無料精白をなし、白米供給を行なっている。
「此時続々トシテ入リ来ル東京方面ノ罹災避難民ハ遠慮ナク各縁者ヲ尋ネテ寄寓シ、多キハ一戸ニ十五名ヲ数フルニ至リ、類ハ潰家ニモ及ボシ、雨天ノ日ハ住所ニモ迷フ様、此世ナガラノ餓鬼道ノ如ク、急造セラレタル雨漏スル小屋ノ主ハ遂ニハ糧食ノ欠乏ヲ訴ヘルニ至」っている。当時、米の端境期でもあって村内にも多くの米を残しておらず、ために村会を召集し罹災救済資金八六〇円余の支出を決議し、白米一七石余、味噌一四五貫余を、村長・吏員・区長らが在郷軍人の応援をえて車を押して毎戸に配給している。
桜井村の震災の模様は一九七五年刊行の「関東震災の記録」(越谷市の文化財第六集)に詳細に記述されている。思い出の記とともに各大字の被害図まで収められたものである。詳しくはこの記録を参照されたい。桜井村の被害は全壊六八戸、半壊三五戸、あわせて一〇三戸の住家におよび、倉庫・物置や寺社などを含めると全壊九八棟、半壊四二棟に達している。さいわい人身事故はなかったものの、村をあげて混乱の極に陥ったさまが右の記録に述べられている。