明治期を通じて自由党―政友会系の基盤であった越ヶ谷政界は、大正期にはいるとその立場に変化を生じる。
大正元年九月の県議補欠選挙をさかいに、南埼玉郡内の政況は「政党は訓練されざるの憾なれば、随て統一無く節制無く常に進退を誤ること多し」(「埼玉新報」大正元年九月二十九日付)と言われるようになるが、その原因はまったく越ヶ谷団体の向背のあいまいさに起因していたのである。南埼玉郡は、北部の政友会、南部の国民党とそれぞれ勢力をつちかっており、この「郡に於ける政国両派の勢力は稍々均等なりしに、越ヶ谷団体の向背如何に因りて変動」(同前)すると言われていた。この越ヶ谷団体は政友会系でありながら、この頃より中立的態度をとったり、国民党に接近しだしたからである。そして越ヶ谷団体の勢力範囲であった越ヶ谷・大沢・出羽・荻島・大袋・桜井・増林・新方・大相模・蒲生・川柳の各町村有力者が「今日にては政友会に属するが如くなれども、其の実之れに従ふを快しとせず(中略)冷淡に構へ袖手傍観の態度」(同前)をとるようになった。その原因は越ヶ谷団体と北部政友会との長年の対立にあるといわれる。県会議員や代議士の選出をめぐり、越ヶ谷団体の意向が多数派の北部政友会派に無視され続けてきたからであろう。このような評価は、越ヶ谷団体が前記県会議員補欠選挙で北部の政友会候補者本多慶雄に一票も投じなかったことが原因となっており、そればかりかかえって国民党の田口菊太郎(新和村、旧大沢町助役)を推し、なお国党民の今井晃(増林村)を首領に迎えるような気運となっていたからである。この時期は越ヶ谷団体をリードしてきた大塚善兵衛・中村悦蔵らの幹部が引退する新旧交代期でもあった。