大正会の成立

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このような時期に、越ヶ谷団体の政治結社「〓世倶楽部」の懇親会でも解散の噂が話題となっている。このとき具体的な解散論は誰からも出されなかったものの、大正二年五月八日には新団体の「大正会」が組織されている。この間に準備がすすめられたのであろう。

 大正会発会の趣旨は、国政の基礎は地方自治にあるので、「地方協同の生活を鞏固にし、各自の意志の疏通を計り、胸襟を開きて相談し、相語らい各自を代表すべき凡てに向て、其の人選を誤らざらんことを期す」(「埼玉新報」大正二年五月十日付)というにあった。つまり従来の議員選出における無節操を反省し、国会・県会・郡会議八の選出には厳正にとりくむために、地域有志の交誼を厚くしようとするのである。久伊豆神社で開かれた大正会発会式には越ヶ谷町、大沢町および荻島・増林・出羽・蒲生・大相模・新方・桜井・大袋・川柳等の諸村より有志者三〇名余が集まり、各町村より幹事一名を選び会務の統一を期している。ここに〓世倶楽部が解散され、旧指導部にかわって新進の滝田滝太郎(増林村)、中村恵忠寿(桜井村)を代表幹部に、越ヶ谷の貴田実、蒲生の中野文香、大沢の松沢藤次郎、大相模の池ノ谷誠太郎らが幹事に選ばれ、新団体が誕生したのであった。

 大正会は成立の経緯からすれば当然政友会系であったはずである。にもかかわらず郡北部の同じ政友会派との対立から、滝田が同村の今井晃(国民党)に接近し、中村は新方領耕地整理で旧敵の原又右衛門(国民党)と結び、昨年来の政友会よりの離反ムードも手伝って主義主張が必ずしも一貫しなくなっている。この年開かれた所得税調査委員の選挙には、国民党派の新和村の田口菊太郎および同派の藤波玉太郎(八幡村)を推しており、また大正会が熱心に取りくんだ南埼玉・北葛飾郡合併問題では、政友会派の代議士斎藤珪次に接近していた。翌三年の衆議院議員選挙には、大正会は自由投票とすることを申し合わせており、統一候補者の選定はできなくなっている。このとき大正会の下部組織ともいうべき越ヶ谷町民同志会は国民党の長島隆二を推していた。滝田、中村らは貴田、池ノ谷とともに国民党系の「談笑会」の会員でもあった。