越ヶ谷町民同志会の発会式は大正二年十二月三日久伊豆神社で挙行された。会員一八〇名出席し、会長に小泉市右衛門、副会長に山崎恭助、幹事に関根幸太郎ほか六名が選出されている。当日は来賓の滝田滝太郎、町長大塚善兵衛らの演説も行われた。同志会発会の趣旨は、町政発展のための多数の憲見の集約をするにあるという。越ヶ谷町同志会ともいわれている。同年十一月の越ヶ谷町長選挙をめぐる激烈な争いが十四日の町民大会となり、十五日と十八日の町会を経てようやく大塚善兵衛に落ち着いたいきさつが、同志会結成の前提となっていた。
このような「越ヶ谷町の紛争が町民各自が好んで説を立つるも多くは感情にはしり、ためにその紛糾を大きくする」とみる関根幸太郎、渡辺重次郎、大塚善兵衛ら三人は、町民同志会に対し、大正三年五月二十四日に建議をなして自治研究会の設立を要望した。町内の紛糾は政治・法律・経済・道徳等の概念に乏しきためとして、毎月二回町村制研究会を開き町民同士の意志を疏通させ、種々の問題をこの会で研究審議することを目的としたのである。最初は小規模な会として出発し、やがては他町村の有志を参加させることを考えていた。
これらの組織は、最初は順調に発展したようである。同年六月二十九日には町民同志会は南埼玉郡長の弾劾を決議し、これを十一月の越ヶ谷町の南埼玉郡教育会の席上で批判した県知事昌谷彰に対する批判をも強めていた。この年越ヶ谷町では前述のごとく、不均一課税問題で郡長水谷麻之助を相手どって内務省へ訴願していたのである。