この時期、南埼玉郡の国民党系政治結社に南埼玉倶楽部があった。明治四十五年二月、原又右衛門・今井晃らは粕壁町俵屋において郡下統一の政治倶楽部結成の相談会を開くことにしていたが、このとき従来の中央倶楽部を改組して成立したものが、南埼玉倶楽部である。
大正三年十二月、この倶楽部の中心人物原又右衛門が粕壁町における政談演説会のため出張中死亡すると、彼のなき後は斎藤善八・小島謙の両長老を顧問とし、相談役に田中四一郎、常任幹事に丸山五郎、幹事長は田口菊太郎を配して郡内の結束をはかった。大正初期の南埼玉郡内は政友会と国民党との勢力はほとんど互角であって、国民党では新方領は原又右衛門、久喜地方は小島謙、岩槻方面は斎藤善八、八条領は田中四一郎によって統率されていたが、原又右衛門の死亡によって新方領の変化を防ぐために、集団指導制を整えたのである。