県会議員の選出

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大正期にはいると中央では西園寺公望内閣にかわって、大正元年十二月二十一日第三次桂太郎内閣が成立した。陸軍の師団増設要求を通すために、陸軍の実力者であり内大臣兼侍従長である桂が後任内閣を組織すると、民衆を動員した憲政擁護運動が発生した。大正天皇の侍従長である桂が自分自身に組閣の命令を下すのは大権干犯の疑いありとし、宮中と政府との別を乱し立憲の本義に背くものとして、政友会・国民党は相たずさえて憲政擁護運動を展開したのである。桂はこれに対し議会をくり返し停会とし、さらに解散をもって対抗しようとしたが、翌年二月十日一〇余万人にのぼる民衆に議会を囲まれて、ついに総辞職においこまれている。これを大正の政変という。わずか二ヵ月の短命内閣であった。

 その後山本権兵衛内閣が成立したが、これも三年四月には海軍製艦費に関する収賄問題の、いわゆるシーメンス事件が発覚して総辞職した。この後をついだのが、第二次大隈重信内閣で、五年十月まで続いている。その後は寺内正毅内閣(五年十月~七年九月)、「平民宰相」の原敬内閣(七年九月~十年十一月)、高橋是清内閣(十年十一月~十一年六月)と続いた。この間県内では明治四十四年の県会議員選挙以来、四回の県議選挙と五回の国会議員選挙が行われている。政党のうち政友会はそのまま継続したものの、国民党は立憲同志会へ、さらに憲政会へと変化していった。

 県会議員選挙の結果をみると第12表のようになる。明治四十四年にはすでに述べたように、市域村々では今井晃が有滝・栗原らを破って当選していた。このとき同じ村の今井を応援した榎本は越ヶ谷団体の幹部であったが、大正四年には再び当選しており政友会系の一員とされている。南埼玉郡政友会の候補者詮衡会では「北部ヨリ小生再撰スルコトニ一致決定、一名ハ越ヶ谷ニ譲ル」(「飯野喜四郎伝」二一九頁)とされており、これに榎本が推され、立憲同志会の田口、藤波らと地盤割がされていた。このとき市域村々の票は、旧大沢町助役の田口菊太郎と榎本英蔵にながれたであろう。両人の得票差に越谷地方の政治情況の変化が反映しているように思われる。

第12表 県議選南埼玉郡結果表
年月 当選者(所属,出身地) 県会勢力分野
明治44年9月 1346票 高木亮助(国民党・清久村) 政友会 20名
1100票 飯野喜四郎(政友会・綾瀬村) 国民党 19名
1059票 小林孝作(政友会・三箇村) その他 5名
958票 今井晃(国民党・増林村)
大正4年9月 1515票 田口菊太郎(同志会・新和村) 政友会 24名
1467票 飯野喜四郎(政友会・綾瀬村) 立憲同志会 16名
1062票 藤波玉太郎(同志会・八幡村)
645票 榎本英蔵(政友会・増林村)
大正8年9月 1389票 大熊新平(政友会・菖蒲町) 政友会 28名
1343票 田口菊太郎(憲政会・新和村) 憲政会 13名
1296票 本多慶雄(政友会・鷲宮村)
1274票 飯野喜四郎(政友会・綾瀬村)
大正13年1月 2854票 本多慶雄(政友会・鷲宮村) 政友会 23名
2640票 石川東悦(憲政会・武里村) 憲政会 17名
2046票 飯野喜四郎(政友会・綾瀬村)
1923票 佐藤国蔵(憲政会・潮止村)

青木平八「埼玉県政と政党史」 一部は「埼玉県議会史」により補う。


 当時の埼玉県会の勢力分野は八名差で、政友会系の議員が多数を占めていたが、この関係は次回の大正八年にはさらに拡大されている。県会議員は政友会の勢力の強い郡北部より三人が当選し、中南部では田口が当選したにすぎない。大正十三年には、ふたたび南埼玉郡では政友二、憲政二となったが、県会では差が六人と少なくなったものの、政友会が多数派であった。市域村々では、この後施行された昭和三年の県議選に、蒲生村の清村善蔵(政友会)、出羽村の大野伊右衛門(民政党)が当選するまで県会議員は選出されていない。