ところで大正八年の県議選挙の内情をみると、南埼玉郡の政友会派は、郡内の三羽ガラスとも言うべき飯野喜四郎・高橋荘之丞・中村悦蔵が七月に協議し、「天領ヨリ一人正交会ヨリ二人候補者ヲ選出スルコト」(『飯野喜四郎伝』二四二頁)となっていた。正交会とは南埼玉郡北部の政友会派が北足立郡政友会派と結んで大正四年二月(発会式は六月)に組織した結社である。同年十月、一旦県内政友会の新組織である幸陽倶楽部に合併したが、翌年より再び南埼玉郡正交会と名乗っていた。このとき正交会の候補者は飯野と本多慶雄の二名であった。
話し合いで一名候補者を出すべき天領自治会は、なぜか候補者が立てられず、かえって北部より大熊新平が当選してしまっている。次点は八条領より出馬した佐藤国蔵(憲政会)であった。これらの理由はまったくわからない。
「天領自治会」が選挙関係の史料のうえに登場するのは、このときが最初である。天領とは越ヶ谷町・大沢町を中心とする旧宿場周辺が幕府の直轄領、つまり天領であったところから命名されたものであろう。大正四年頃には結成されていたようであるが、大正会や正交会のごとき社交的な政治結社ではなかったようである。大正九年シベリヤ出兵中の紛争事件である尼港(ニコライエフスク)事件で死亡した新方村出身者に対する次の史料をみると、天領自治会は越谷地域の行政事務会であったようである(「天領自治会関係書類」)。
弔辞
当会ハ先般尼港ニ於テ国家ノ為メ殉難セラレタル故榎本晴次君ニ対シ深甚ナル哀悼ノ意ヲ表シ別封薄奠ヲ供ヘ謹ンテ弔慰ノ至情ヲ致ス
大正九年六月二十六日
立憲政友会所属
天領行政事務会
中村悦蔵(出羽村長) 川島一郎(荻島村長)
大導寺広吉(新方村長) 尾崎麟之振(大袋村長)
森森太郎(桜井村長) 中村源三郎
嶋田元吉(増林村長) 中村重太郎(大相模村長)
松沢藤次郎(大沢町長) 有滝七蔵(越ヶ谷町長)
秋山勇之助(蒲生村長)
この史料によれば、天領自治会は天領行政事務会とも言われ、しかも立憲政友会の所属であることを明示している。当時市域村々における行政事務会には、ほかに新方領行政事務会と治本会とがあったから、天領行政事務会を含め三行政事務会が並存していた。前にも記したように治本会は、大相模・蒲生・川柳・八幡・潮止・八条村などの八条領村々に増林村を加えた「政治党派ノ外ニ立」(越谷市史(五)四四五頁)つ行政事務会である。のち昭和二年の三行政事務会合併の話題に対しても、この会方針を主張してこれに反対している。もっとも八条領は古くからの改進党系、つまり国民党→立憲同志会→憲政会の基盤であったからかもしれない。
このような治本会に対し、天領自治会は政友会所属を明らかにしており、しかも大相模村長、蒲生村長や桜井村長、新方村長など、地理的関係で言えば本来治本会や新方領行政事務会に属すべき村々の村長を含んでいる。これらのことより天領自治会は行政事務を主体とする市域村々の町村長(ないし助役)による政友会系政治団体ということになろう。このように各町村の最有力者を網羅しながら、なぜ県会議員を出しえなかったかは大正十三年の場合ともども興味ある問題である。