大正九年二月十五日粕壁町最勝院において、庚申倶楽部の発会式が挙行されている。「庚申」とは大正九年の干支である庚申(かのえさる)にちなんでいる。南埼玉郡内の政友会系の団体である正交会と天領自治会が解散し、新たに新団体を組織したのである。発起人惣代は飯野喜四郎、このとき政友会所属代議士秦豊助、斎藤珪次らが演説した。降雨にもかかわらず当日の出席者は百数十名に達し、すこぶる盛会であったといわれている。
このとき天領自治会の代表委員は尾崎麟之振・秋山勇之助・中村悦蔵・川島一郎・有滝七蔵らであった。この合併にともなって「天領自治会ハ自今南部行政事務会ト改称」(「天領自治会関係書類」)されることになったが、天領行政事務会ならびに天領自治会の名称はその後も使われている。行政事務会自体は当時必要な組織であったし、地理的な集合体としても、従来の慣行もあって便利であったのであろう。旧正交会は庚申倶楽部北部会とも称しているので、あるいは南部会とも言われたかもしれない。
同じ大正九年の五月に施行された衆議院議員選挙は小選挙区制となり、南埼玉は北葛飾郡とともに第四区に所属した。定員二名である。庚申倶楽部南部すなわち越ヶ谷地域は現職の斎藤珪次を推薦したが、北部会はこれに反対し、野田逓信大臣の姪婿山崎猛を輸入候補としたため、結果は山崎が当選し斎藤が落選している。もう一名は神谷弥平(北葛・憲政会)が当選したからである。やはり北部グループに意向を無視されることが多かったようである。市域村々に政友会勢力も根強かったが、国会・県会とも独自候補では勝てなかったのである。
大正十三年の衆議院議員選挙には斎藤が当選したが、推薦団体は「越ヶ谷団体有志」や「新方領有志」「八条領有志」(越谷市史(五)五七〇頁)であり、「越ヶ谷団体」自体が一致して、推したわけではない。内部分裂が進んでいたのであろう。