本章第一節で述べた地方改良運動は、日露戦争後の地方自治振興を目的とするものであり、その運動推進の眼目には、勤倹貯蓄・風俗改善・親睦協和などの社会教化的性格を多分に内包していた。これらの眼目はそのまま民力涵養運動に引継がれていった。民力涵養運動とは、第一次世界大戦中の大正六年頃から内務省地方局が中心となって展開した一大社会教化運動をいう。
なぜ民力涵養運動が叫ばれるようになったかは、その頃の社会的背景、すなわち大正デモクラシーと呼ばれる思想界の変動や、第一次大戦後の社会不安―資本家と労働者・地主と小作人・富裕者と貧者の対立、さらに加えて大戦下の経済界からもたらされた浮華驕奢の弊が農村社会の勤倹節約の美風を侵潤する傾向を生じつつあったためで、これが是正・緩和策として「国民思想の善導」に力点をおく社会教化運動として展開されたのである。
大正八年五月、桜井村では南埼玉郡役所からの照会に応じて「民力調査報告」を回答している。この調査項目では、「戦後思想界ノ変動」、「地主ト小作人トノ関係」、「労働者ト事業主トノ関係」、「富豪、門閥家ト一般民トノ関係」、「奢侈ノ傾向」……等があり(越谷市史(五)九一五頁)、当時為政者たちが、いかに労資の対立や地主小作問題、さらには貧民救済を社会改良的に解決しようとしていたかが把握され、興味深いものがある。
埼玉県では大正六年七月、内務省の訓令に対処するため、郡長会議を召集して、当面緊要の風紀改善上の施策と町村自治上緊要の施設について諮問した。この答申では、風紀改善の施策として、(1)冠婚葬祭の儀式を改善すること、(2)娯楽の方法を改善すること、(3)休日を整理し、国定祝祭日を娯楽の日と定めること、(4)集合の時間を守ること、(5)敬神崇祖を本位とする矯正会を設置すること、(6)勤倹貯蓄組合を設置することなどがあり、町村自治振興上の施設として、(1)町村名誉職・吏員の講習会の開催、(2)部落講演会の開催、(3)戸主会の設立、(4)部落有財産統一の制度の設定、(5)青年団における公民教育の振興、(6)産業組合の振興、(7)町村是の確立と優良町村の視察などがあった。
かくて、本県では同七年十二月、風俗改善に関する告諭を発し、県下各町村に風俗改善申合規約を定め、各町村では実行委員を各区長としたうえ、冠婚葬祭における費用節約や時間の励行等を規制した。ついで翌八年三月、内務省はさらに、「戦後民力涵養に関する件」の訓令を発した。この訓令では、
(1) 立国ノ大義ヲ闡明シ国体ノ精華ヲ発揚シテ健全ナル国家観念ヲ養成スルコト
(2) 立憲ノ思想ヲ明鬯(めいちよう)ニシ自治ノ観念ヲ陶冶シテ公共心ヲ涵養シ犠牲ノ精神ヲ旺盛ナラシムルコト
(3) 世界ノ大勢ニ順応シテ鋭意日新ノ修養ヲ積マシムルコト
(4) 相互諧和シテ彼此共済ノ実ヲ挙ケシメ以テ軽進妄作ノ憾ミナカラシムコト
(5) 勤倹力行ノ美風ヲ作興シ生産ノ資金ヲ増殖シテ生活ノ安定ヲ期セシムルコト
の五大要綱を決め、大々的にこの運動を全国に展開させた。埼玉県でも同年六月、これに基づいて「戦後民力涵養実行要目」を作成して各郡・町村に示達した。かくて各郡・町村ではそれぞれ適宜実行細目を作成して、これが実践活動に入った。
この民力涵養運動は、地方改良運動と同じく、政府や県・郡が一方的に上から指導監督するというものではなく、町村住民の協同体意識を下からもりあげる運動であり、したがってこの実行推進者は、町村内の有力者をすべて参加させ、「村ぐるみ」の運動をおこすところに特徴があった。