大正九年三月十三日、埼玉県では町村長会議を開催し、各町村における民力涵養運動の推進を指示するとともに、諮問事項として、「浮華驕奢ノ弊ヲ矯メ質実剛健ノ気風ヲ養ヒ且ツ思想ヲ善導スルニ適切ナル方法如何」を諮った。これに対し(1)矯風規約の励行と産業組合の活動、(2)在郷軍人及び青年子女修養機関の振興、(3)部落講演の開催の三項目が答申されたので、翌月十六日、南埼玉郡長は管下町村長にこれが実行方についての内訓を発した。
その第一項では町村民力の充実、地方産業の発達を図るためにも産業組合の活動を促す必要を強調し、第二項で民風の作興に努めるためには、在郷軍人分会、青年団及び処女会等の奮励活動に俟つところが急務であるとし、さらに第三項で思想の善導に関しては、教育家・宗教家・その他一般有識者と協力して部落講演会のごとき施策を励行すべきことを訓令している(出羽村庶務部大正六年~)。
ついで、同年四月二十日南埼玉郡役所は、管下各町村に対し、民力涵養事業に関しては着々成果をあげつつあるが、元来本事業の徹底を図るためには不断の努力を必要とするので、各町村に民力涵養運動の主任者を定め、これが施策計画指導等に当らせるよう指示するとともに、その主任者の職氏名を同月二十五日までに報告するよう通牒している(荻島村庶務部大正元年~)。さらに同年十一月十二日の郡下町村長会議では、民力涵養運動の普及宣伝を図るため郡役所では五名の講師を委嘱しているので、一町村を区域とする講演会を開催する場合は講師を派遣するので各町村では必ず年一回以上の講演会を開催するよう指示し、その開催日時を報告するよう求めている(出羽村庶務部大正九年)。市域内各町村ではこれに対しどのように対応したかの詳細は不明ながら、この運動が全県下で強力に推進されていることからみて、当然市域でも展開されていたとみるべきであろう。
民力涵養運動では右に述べたとおり、貯蓄奨励・時間厳守・冠婚葬祭の費用節約など、個々住民の具体的な私的生活にまで踏み込んで、その規制を図ろうとしている。この目的は地域住民の淳厚良俗の風を維持することで、農村社会の崩壊を未然に防止するとともに、一面積極的な産業の開発を促進させて民力の向上を図り、その余力をもって財政力を充実させ、健全な自治体の育成とその再建を図ることにあった。その限りにおいては前期の地方改良運動となんら変わりがないわけであるが、依然これらが中心となったのは、「生活の合理化それじたいよりも、勤倹力行の美風を作興する点、つまり思想善導に主たるねらいがあったと考えられ」(宮坂広作著『近代日本社会政策史』)、これがまた、民力涵養運動は一大社会教化運動であったと解される所以でもあった。