埼玉共済会の設立

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米騒動の発生を契機として埼玉県では、大正八年四月、県知事岡田忠彦を会長とし、郡長を支部長、町村長を分区長とする財団法人埼玉共済会を設立した。この設立協議会において知事は会設立の必要について次の挨拶を行なった。これは当時の社会世相の一端を示したものなので、以下その要旨を掲げる。

  産業界の自由競争によって国運日に進み月に揚り、同時に諸産業は急速に勃興をみたが、反面共同生活の均衡はくずれ貧富の格差は甚しくなった。現在県下の細民はおよそ総人口の四・六%にあたる六万三八〇〇余人、大中の工場は四六〇余社を数えるが、その職工数はおよそ二万八二〇〇余人に及んでいる。したがって、労資間の関係はもとより、地主小作間の関係も大きな問題に発展しつつある。現時極端なる民主的思想、社会主義的思想の勢力が増大しているが、我が国の国情はこれら思想と相いれないのはもちろんである。だが労働者の激増、資本の膨脹、貧富の懸隔、物価の暴騰、思想の動揺をみるとき、この解決方法の研究は現下の必要事である。このほか貧困はもちろん、犯罪人、不良児、老衰者、疾病者が激増しているが、これをこのまま放置しておけば、社会の治安を害し、ひいては将来に禍根を残すものとなろう。今こそ貧困者の救済、落伍者の助成、不良児などの感化につとめる必要は大である。このため埼玉共済会は、慈善と犠牲の人道主義的立場から、社会の欠陥を補い、感化教導の実を挙げ、社会人民相互の幸福と安寧のための、一つの大きな力とならねばならない。

 かくて社会福祉団体として誕生した埼玉共済会は、第一次の事業計画を樹立したが、その事業項目は、(1)各町村に二名から八名の福利委員を任命する。(2)小農保護部と労働者保護部を設置する。(3)貧病者の救療。(4)肺結核の救済。(5)土地家屋購買資金の貸付。(6)生業資金の貸付。(7)家庭内職の奨励。(8)子守教育の助成となっていた。右の事業のうち、とくに重要なのは、現在の民生委員にあたる福利委員の活動で、川柳村ではいずれも一五町歩から六〇町歩の地主五名が任命され、日常貧困者の相談相手となって援助誘導することを目的としていた。

 共済会の基金は、県の補助金と篤志家の寄附金を目途としていたので、県・郡では積極的な寄附行為を各町村長に要請した。この呼びかけにより、川柳村では石井利助が一〇〇〇円、藤波磯吉が六〇〇円、豊田健治が一五〇円、加藤義郎と深井哲三郎が各一〇〇円の寄附を早速申込んでいる。これらの人びとはいずれも大・中地主であるが、他の町村でもこのように地主層からの寄附の申出があったものと思われる。

 また、当時各町村に各種の社会事業施設が設けられていたが、この施設を大正十二年三月の調べによって、越谷およびその周辺地域のものをみると、無料宿泊所が谷塚・越ヶ谷・大沢・吉川・粕壁・杉戸・幸手・岩槻・鳩ヶ谷に、人事相談所が越ヶ谷・吉川・幸手・岩槻に、救護施設が潮止・栢間に、教護施設が大門に、住宅供給施設が岩槻に、託児所が加須に設けられていた。このうち十一年八月から十二年三月までの八ヵ月間における無料宿泊所の保護成績をみると、越ヶ谷町は男一四名、女二名の計一六件を扱っている。これら被保護宿泊者の旅行目的は、男女とも求職のための道中、あるいは出稼先からの帰郷途中の者によって占められている。因みにこの期間岩槻では一一名、杉戸では七名の宿泊者があったが、幸手や吉川では零という数字であった。