伝染病隔離病舎と火葬場の設置

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明治四十四年、越ヶ谷警察分署管内では腸チフス、パラチフスが三七名も発生したので、四十五年には同署では各町村とも一大字二名以上の健康査察員を設置し、毎月三回以上村民の健康を査察し、駐在巡査に報告することを指示した。当時各町村とも隔離病舎の施設がなかったので、伝染病が発生すると、寺院や空家などに患者を収容して急場をしのぐ程度であった。そこで治本会加盟の川柳・大相模・蒲生・増林・八条・八幡・潮止の七ヵ村は隔離病舎を設置し、該病舎に関する事務を共同処弁するため組合を結成、組合役場を川柳村役場におくことを計画した。この構想は木造平家で坪数は八一坪、別に附属建物が二〇坪のものであったが、各村の協議が整わず遂に組合結成は中止された(治本会会議録)。

 その後、大正元年から四年までの四年間、越ヶ谷警察分署管内における各町村の赤痢・腸チフス発生状況は第14表のとおりで、赤痢患者は三七名発生しているが、このうち一三名が死亡、腸チフスは五九名発生して一五名が死亡している。また同期間における南埼玉郡全体の伝染病患者発生総数と死亡総数(カッコ内)をみると、赤痢が一〇三名(三一名)、腸チフス三〇八名(六七名)、パラチフス四四名(八名)、発疹チフス一六名(四名)、猩紅熱一七名(四名)、ジフテリア一四四名(五五名)、総数六三二名(一六九名)という状況で、極めて多くの患者が発生していることがわかる。

第14表 越ヶ谷警察分署管内赤痢腸チフス患者数
病名 赤痢 腸チフス
町村 大正元年 2年 3年 4年 大正元年 2年 3年 4年
桜井 1 1 2
新方 1 1
増林 1 1 1 4(1) 5(1)
大袋 16(6) 16(6) 6(3) 6(3)
荻島 7(1) 7(1)
出羽 1 1
蒲生 4(1) 1 1 6(1)
川柳 1(1) 1(1) 1 1
大相模 1(1) 1(1) 1 8(1) 9(1)
越ヶ谷 1 5(3) 1 7(3)
大沢 6 6
八条 1 1 2(1) 2(1) 2(1) 6(3)
八幡 10(4) 10(4) 2 2
潮止 1 3(2) 3(1) 7(3)
4(2) 10(4) 23(7) 37(13) 15(5) 10(4) 8(2) 26(4) 59(15)

( )内の数字は死亡者数を示す。増林村衛生関係書類(明治45~大正7年より作製)


 そこで、各町村では一日も早く完全な隔離病舎を建設しようとしたが、各町村とも単独で設置することは財政上困難なので、何ヵ村かで組合を結成してこれを解決しようと意図した。かくて、蒲生村・大相模村・川柳村の三ヵ村は御大典記念事業として大正二年に蒲生村外二ヵ村組合を結成して隔離病舎を建設することを協議した。組合管理者は蒲生村長で隔離病舎の位置は、蒲生村大字登戸耕地に決定し、同四年に建築費二五〇〇円を取敢えず日進銀行越ヶ谷支店から借入れ、建築に着手、同年八月十二日に落成式を挙行した。ついで、五年には大袋村・桜井村・新方村の三ヵ村は同じく大袋村外二ヵ村組合を結成し、組合役場を桜井村役場においた。ただし、隔離病舎の位置は大袋村大字袋山とした。なお、十年九月には組合の名称を桜井村外二ヵ村組合と改称した。越ヶ谷町の隔離病舎は明治年代の越ヶ谷・大沢町組合時代に越ヶ谷町字一番地に建坪一一・五五坪の病舎を設けていたが、大正二年に建築費三〇〇〇円をもって五一・六二坪の病舎を越ヶ谷町字二番地の地に新築している。

 埼玉県では、大正七年七月郡長会議の際、知事は衛生上の観点から火葬の奨励に努むべき件を指示し、その運用については伝染病院や隔離病舎の附属建物として建設されることが望ましいと訓示した。そこで、県内各地にはこの頃から火葬場が建設されるようになった。大正八年四月、蒲生村外二ヵ村組合は組合規則の中に火葬場の設置および維持に関する事務を追加し、火葬場を建設することとした。ただし火葬場が実際に使用を開始したのは十一年五月からであったが、同所には葬儀車も設備されていた。ついで、桜井村外二ヵ村組合でも十年九月に前記同様火葬場の事務を追加したが、実際に火葬場が使用されたのは十五年二月からであった。両組合の火葬場は組合村以外の者にも使用させたが、その場合多少使用料に差をつけていた。このうち桜井村組合は組合外の利用者に対しては組合内利用者の二倍の使用料を徴収していた。

蒲生村外二ヵ村組合隔離病舎