十二指腸虫病は十二指腸虫という長さ五、六分(約一五cm~二〇cm)ぐらいの絹糸のような細い虫が人体の腸の中に寄生しておこる病気で、病気が進行すると浮腫と貧血がおき、次第に体力が衰え、その結果死亡する者もいるなど恐しい病気とされていた。ことに埼玉県では古くから地方病として患者も多かった。明治以降次第に死亡率も増加し、また体力を消耗し、発育を阻害するなど、延いては生産力に及ぼすところが大で、社会的影響も甚大なものがあった。とくに南埼玉郡のように肥料の多くを人糞に依存するところでは、三人に二人は同病に罹っているとされ、明治年間から社会問題となっていた。
そこで、南埼玉郡役所では大正二年に、郡内の出羽・鷲宮・潮止の三ヵ村を抽出して、十二指腸虫ならびに腸内寄生虫卵の調査を試験的に施行した。その結果出羽村では二五〇五名を検査し、十二指腸虫一八五九名(七四・二一%)、ヂストマ一七名(〇・六七%)、条虫二七名(一・〇七%)、鞭虫九六〇名(三八・三%)、蟯虫八名(〇・三二%)、蛔虫二〇〇三名(七九・九六%)の有卵者があることがわかり、その駆除の必要が叫ばれるようになった(増林村衛生関係書類―明治四十五~大正七年)。
かくて、埼玉県では大正八年度から五ヵ年継続事業として町村が予防費を計上した場合はその予防費の四分の一を県費から補助して、県下一斉に十二指腸虫の駆除に当らせることとした。その指針として、一一歳以上六〇歳までの者を対象とし、検査医は町村医もしくは適当の医師を嘱託することにしたが、検査費はすべて町村費からの負担とした。また駆虫費は各自負担を原則としたが、とくに貧困者は町村費からの負担とした。また検査によって卵を検出した際は、「ベタナフトール」、「チモール」もしくはその含剤、または「ヘノポヂー」油を用い、駆除法は隔日ないし一〇日間に三回反復して行うよう指示した。南埼玉郡役所では七年六月八日郡役所に宮島医学博士を招き、十二指腸虫病検査および実験ならびに駆除に関する講演会を開催し、町村長に対し町村在住の医師の出席方を要請して準備に取りかかるとともに、八年度予算に十二指腸駆除費を計上するよう指示した。
これにより、市域各町村では八年度から予算を計上したが、このうち、桜井村は五〇円、新方村七三円、大袋村一五円、荻島村四〇円、出羽村七九円、蒲生村二七円、大沢町二〇円であった。この内、桜井村は第一年次(八年)に大字大里・下間久里、二年次は平方の戸崎・山谷、三年次は上間久里・大泊、四年次は平方の南・横手・上・沖・東・砂間と四ヵ年計画で実施した。第一年次の大里・下間久里の検査成績は三六三名で、十二指腸虫有卵者は三二四名(八九%)、蛔虫一八八名(五一%)、鞭虫二四八名(六八・三%)、東洋毛様線虫二四六名(六七%)という極めて高い比率であった。なお、新方村は有卵者二九三名中十二指腸虫一四五名(四九・四九%)、蛔虫一七八名(六〇・七五%)、同小学校は一八四名中十二指腸虫五八名(三一・五二%)、蛔虫一四二名(七六・六三%)であることからみて、各町村で多少の差はみられるが、いずれも有卵者が多かったのはたしかであった。
次に、県では予防法のパンフレットを配付しているが、これによれば(1)人糞を取扱うときは手足ことに爪の間を丁寧に洗うこと、(2)人糞を取扱う前には手足に油を塗ること、(3)人糞を撒布した水田に入る時は二枚重ねの脚絆を用いること、(4)人糞を肥料とするにはできるだけ腐熟させること、(5)蔬菜類は丁寧に洗うこと、(6)毎日ニラ・ニンニク・のびる等を食べること、(7)飲料水は濾過すること、(8)便所と井戸を改良し、汚水が侵入しないようにすること、などとしている。